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15歳の東京大空襲

15歳の東京大空襲 2019・7・20

 

15歳の東京大空襲』という本を読んだ。

文芸春秋の名編集長、半藤一利(はんどう・かずとし)の10年前の自伝的小説である。

 惨憺たる地獄絵が、見事な文学的描写で語られる、その筆力に私は驚嘆した。

 広島の原爆をかいた井伏鱒二の名作『黒い雨』に匹敵する名作だと思った。

 長崎の原爆については永井隆博士のすぐれた記録などがある。(『長崎の鐘』とか)

15歳の東京大空襲』も上記の作品とともに後世まで読みつがれるべき、国民的叙事詩であろう。

 

 そして、先日『焼けあとの ちかい』という絵本が出た。

 これは『15歳の東京大空襲』を、塚本やすしという絵描きさんが描いたもので、その大胆で奔放自在な絵筆は、酸鼻きわまる地獄の絵図でありながら、芸術的な“なにか”を感じさせる傑作である。

 

この絵本は藤代勇人氏の企画・校正によるものである。

藤代さんは、私の天風哲学に関する9冊の本の編集をしてくれた、私の相棒です。

この絵本も『15歳の東京大空襲』もこの夏、日本の敗戦を思いつつ、できるだけ多くの人に読んでほしいものです

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新村先生のこと

新村先生の思い出  2019.6.18
 
新村出先生のご自宅を訪ねたのは、大学2年生の春だったか。新村先生とはいうまでもなく『広辞苑』という国民的な辞書の編者です。
昭和34年ごろです。

 その3年前に他界した、私の母にあてた手紙を私はもっていたので、それをもって訪問した。その中には「昔懐かしい三枝子さん」という語句もあって、達者な墨筆で書かれていた。
 春の麗らかな、よく晴れた日で、すぐに2階の先生の和室の書斎に通された。前裁の緑の梢が目前にあざやかだった。
 新村先生は、小柄で身動きが軽捷であり、肌の白い貴公子のような人だった。重厚な圧迫感などみじんもなかったので、私はすぐにうちとけることができた。
 先生は亡くなった私の母について、あれこれ尋ねられた。
「あなたのお母様はこどものころから、数学の天才でね」
などと言われた。
 先生と母は昔、京都鞍馬口のすぐ近くに住んでいて、子供の頃つきあいがあったのだ。母は出さんを兄のように親しんでつきあっていたようだ。
 
 新村先生の家はむかし桂小五郎が、維新後のことだが、木戸孝允と名乗って国家の要職にあったころ、京都にきたときに泊まる別邸であった。
 私が先生と話していると、三省堂の方が二人たずねてこられた。『広辞苑』の改訂版の相談であった。先生は私を編集者のひとに
「これは私の若い友人です」と紹介され、帰ろうとする私をひきとめて、「いなさいよ。勉強になるから」と言われた。
 
 母は私が新村先生の広博な学識に触発されて勉学にはげむことを期待していたことは、私に先生を語る時の口吻によみとれたが、私は先生のお宅をその後おとずれることはなかった。私は辞書学のような地味なものでなく、もっと奔放で自在な未来を夢みていた。
 
 高藤武馬(有名な国文学者)が新村出と親交があったことは、のちに知った。
 武馬の息子、武允(英文学者)とは、大学の3年のころから私は親交があったのに、なぜいっしょに新村先生を訪ねなかったのか、いまでは不思議だ。
 
 新村先生は晩年、高峰秀子のファンであることを公言してはばからず、家中に、その写真をはりめぐらしていたことは、高峰の随筆に書かれている。先生はこの女優を自宅に招いたのである。高峰はすぐれたエッセイストでもあった。
その頃の老境の先生を訪ねて『二十四の瞳』の話でもしてみたかったものだ。
 
 
 

マッシューズ博士のこと

マッシューズ博士のご来駕  2019.5.7

 

わが「天風塾」は、先日オーストラリアから、マッシューズ博士 Dr. Matthews の來訪という光栄に浴しました。

マッシューズ博士は、西オーストラリア大学の物理学の教授です。

 

ご来駕の意図は、私の英語の瞑想に関する本が気に入られて、瞑想の指導をじかに受けてみたいということでした。

私の本というのは The True Paths to Meditation(=正しい瞑想に至る道)で、私が日本語で書いた本「最高の瞑想法」や「やさしい瞑想法」と似ていますが、英語の本は、外国人の読者を念頭において、科学、哲学、宗教の相関する問題なども論じています。

 

マッシューズ博士は

「あなたの本は誠実にsincerely瞑想の方法を書いていて、とても感動しました。いままでたくさんのヨーガの本を読みましたが、すべて瞑想の肝心な方法に関しては、なにも教えてくれないのです」

と言ってくださった。

 

マッシューズ博士は、シュノーケリングが趣味で、パースの近くの砂浜で撮った動画を見せてくださった。それはサメが何頭も泳いでいる場面で、

「サメは怖くありませんか」

と私が聞くと

「まったく安全ですよ。案内しますよ」

ということであった。私は一度そこへいってサメと遊んでみたいと思いました。

小豆島への旅

小豆島への旅     2019420

 

小豆島へ旅にいってきました。

天風に関する10冊目の本『天風メソッド10選』を書きあげましたので、

ということもあり、

東北育ちの老妻に瀬戸内海の美しさを見せたいという思いもありました。

小豆島はこれが3度目ですが、今回は妻の方から提案してくれました。

 

私は中学・高校時代に、広島の瀬尾内海を臨む家で育ちましたので、

小豆島あたりの風景は心の“ふるさと”です。

なぜ小豆島?と言われると、映画「二十四の瞳」の舞台だからです。

 

私が「二十四の瞳」というと、聞いた方はたいてい

「高峰秀子ね」と言ってちょっと笑う。

もちろん高峰秀子は、私のもっとも敬愛する女優さんではあるが、

監督の木下恵介がえらいと思う。

「二十四の瞳」は、永遠の国民的名画だと思う。

 

今回泊まったホテルは、土庄港の海と山が眺められる、

眺めのいい、歴史もある「大木戸」でした。

このホテルは、小豆島でただ一つの温泉です。

夕食は郷土色ゆたかで、海鮮の珍味に、やわらかい肉料理も出ます。

 

クルマでフェリーにのって瀬戸内海を往復します。

京都から片道200キロくらいで、

1日のドライブとしては適度な長さです。

今回はじめて高槻と岡山をむすぶ「新名神」を走りました。

帰りが真夜中のドライブになったので、

慎重にゆっくり走りました。

気がつくと巨大なトラックが、

私の車の真後ろにぴったりくっついて、脅そうとしている。

私はモーレツにスピードをあげて、この怪物をふりきった。

そんなこともあって、帰りのドライブはちょっと疲れました。

80歳になりました

80歳      2019年2月14日

 

私は先日80歳をこえ、やっとお年寄りの仲間にはいれたと喜んでいます。
なにひとつ病はありません。
とりあえず「90歳まで生きよう」と思っています。
90歳になれば100歳まで生きようと考えるでしょう。

 昨年でしたか、家内が世話になった近所のお医者さまにご挨拶に伺うと、
「すこし検診させてください」
と言われ、断りきれずにベッドに横たわり、触診をうけました。
すると医者は
「この胃は、ひじょうに消化力のある胃だ」
と言われました。
「なぜそんなことが分かるんですか」
と私はききました。すると、
「あなたの胃はたいへん弾力性があるんですよ」
と言われました。

若いころいつも胃をわるくしていた私には驚きでした。
最近は胃について考えたこともないのです。

とは言え、私は、やるべき仕事とか使命のようなものが出てきたら、全身全霊でそのことに当たり、それが原因で過労になって死んでもなんの悔いもありません。むしろ歓迎するところです。

近く天風哲学に関する10冊目の本を出します。退職して10年になり、10冊目というのはちょうどいい数字です。この執筆の仕事ぐらいでは、私は過労になることはありません。

死はすこしも怖くない。
死とは、宇宙の根元的な実在に還るだけのことではないですか。
いいかえれば、「死とは、大自然の懐に抱かれる」ということですね。

最近アメリカのある哲学者が「死について」という本を出しました。買って読んでみましたが、なんの益するところはありませんでした。このような本はかえって、人々を迷妄の底に突き落とし苦しめるだけです。