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2013年よさようなら


今年もいよいよ暮れようとしています。
5月に天風塾を設立して、以来7カ月がたちます。
その間、7回ほど講義をご依頼いただき、お話をさせていただきました。
また、個人レッスンは、21回行いました。
アメリカやオーストラリアからはるばる来ていただいた方もあります。
ありがとうございました。

天風先生は
「霊の世界では、時間も空間も超えてしまう」
と言われました。

まこと、過去はどんどん現在になっていきます。
現在はどんどん未来に入っていきます。
ですから、過去も未来もないにひとしいのです。
ただあるは、現在だた今ということになります。

しかし、さらに考えると、
過去も未来もないならば、現在があるという論理はなりたちません。
されば、時間とはこの仮の現象世界に対して人間が
都合のうえで勝手に想定しているにすぎません。

つまり、現在ただ今、私たちに命があり、生きている!
という実感があれば、それは永遠のものであり、
私たちの命というものは不滅ということになります。

そうです!人間の霊魂は不滅です。
カントもそう言っています。








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中村天風と2・26事件 つづき

これは前回のつづきです。

 天風は、弟子の西田税が2・26事件にかかわったことで、憲兵隊の疑惑をうけました。
 天風は、きびしい追及をされました。西田は死刑になりましたので、天風もきわめて困難な立場に立たされたのです。

 天風の弁護団がつくられました。
 団長は、伊藤一雄という、京都の弁護士でした。この人は当時、「正義の弁護士」といわれた有名な弁護士です。その伊東一雄が、天風という人は知らないで、弁護を引き受けて、天風にはじめて会ったときの印象をその手記の中に書いております。私は先輩から、その手記の写しを見せてもらったことがあります。その手記には、およそ次のようなことが記されていました。
 「天風にはじめて会ったとき、その両眼に叡智を見たと思った。天風は私を見ると、にっこりと微笑された。天風の話しぶりは、まことに爽快で・・・声は清冽・・・相手を魅了してやまない人柄だった」
 ちなみに、伊藤一雄は、裁判で天風の無罪をかちとったあと、天風の弟子になっています。

 2・26事件の起こった当時の日本は、世界的な大恐慌のあおりで、多くの国民が貧困にあえいでいました。とくに東北地方では、餓死する人が多く出ました。若い娘さんたちが身売りされ、売春婦になりました。一方、軍部と財閥が癒着して、巨利をむさぼっていました。天風は義憤をおぼえ、貧しい人々に同情しました。

 北一輝と西田税の国家社会主義は、そのような国家的危機をなんとか打開したいという、切実な思いから生まれたものであり、天風はそれに共鳴していたことは事実です。
 彼らの国家社会主義というのは、
1、普通選挙の実施
2、言論の自由
3、男女平等
4、農地改革
5、財閥解体
6、天皇制は存続させるが・・・天皇のために国民がいるのではなく、国民のために天皇がいる。
 といったような考え方で、これは皮肉にも敗戦した日本が実現した民主主義そのものです。

 当時の日本の軍国主義のもとでは、天皇は神聖にして侵すべからずであり、天皇のために国民は滅私奉公すべきであったのです。
 しかし、憲兵隊の特高課は、取り調べの結果、天風は心身統一法を教える人であり、その会合は政治的なものではないと理解して、天風を有罪にはしませんでした。

 天風の考え方はきわめて明快です。
 つまり、
 「どんな政治思想をもつことも、個人の自由であるが・・・時代がかわれば、その政治も変化する。それは政治は理性によって考えられるからである。政治は科学的に合理的に考えるべきであり、理性は進歩し変化するものだ。天皇制は絶対的なものではなく、時代がさがるにつれて、変わっていくものだ。
 大切なのは国民の幸福であって、天皇といえどもそのために存在しなければならない」

 天風が先の戦争を、正義のたたかいではないとして反対したのは、うえのような考え(国家社会主義)に基づいているのです。



































 


天風と2・26事件

 中村天風の2・26事件との関わりを、お話しすると、天風の政治や社会に対する考え方がいくらかわかるでしょう。そこで、
 今日は中村天風と2・26事件の話をします。
 天風は2・26事件で、死刑にならないまでも、有罪で禁固刑となる可能性がありました。
なぜなら、天風の愛弟子であった西田税(みつぐ)が2・26事件の直後、逮捕され有罪となり、翌年に銃殺刑となったからです。しかも、事件の前夜、西田税は天風宅を訪れ、なにごとをか相談したという事実があるからです。
 
 西田税は、国家社会主義をとなえる思想家として、当時有名てした。
 また、国家社会主義を主張した北一輝と親交がありました。北一輝も西田と同じ日に、銃殺刑になっております。 さらに、西田は、2・26事件の首謀者であった安藤輝三大尉と、事件の前に何度か会ったという事実もあります。
 西田税や北一輝の政治思想が2・26事件に影響をあたえた、と考えられたので、彼らは死刑になったのです。


 2・26事件と言うのは、昭和11年2月26日におこりました。
 その日、雪の降り積もる未明、陸軍の1400名もの若い兵士たちが、東京のど真ん中で軍事クーデターをおこしたのです。

 このクーデターは、22名の青年将校が指導するもので、彼らは当時の軍部と軍需産業界と政府が金銭的な癒着をして、政治が腐敗していることに憤慨し、政治問題を武力で解決しようとしたのです。


 国民の多くは、彼ら青年将校の正義感に感激して応援しました。
 しかしクーデターは失敗におわり、彼らの多くは(19名)軍事裁判でただちに有罪となり、その年のうちに死刑となりました。死刑ときいて涙を流した人も少なくありませんでした。
 
 クーデターでは、斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、などが射殺され、渡辺教育総監、鈴木侍従長などが重傷をうけました。国会、首相官邸などが占拠され、首都は制圧されました。岡田首相はうまく逃げました。

 
 西田税は、元将校ですが、軍人というよりは、政治思想家であり、憂国の志士です。
 彼は、頭山満の門をたたいて、人生や政治について話し合いました。
 それが縁で、天風にも教えを求めるようになったのです。

 天風哲学は個人の生き方だから、社会性がないと思われますが、、天風自身は社会性のある人で、激情家であり、正義感でした。そして天風は恵まれない人々に強い同情をもち、労働者の味方でした。それが結局は会社の利益につながり使用者側の利するところともなったので、天風はよく企業家から労使の調停を頼まれたのです。

 西田税は、憲兵隊のきびしい取り調べを受けたとき、事件の前夜、中村天風の家に行ったことを認めざるを得ませんでした。それが天風が憲兵隊の特高課の捜査の対象となった原因です。
 天風の家でどんな話があったか、西田はたずねられました。
 西田は、天風がただ
「君側の奸は、もって誅すべし」(=天皇の近くにいる悪いはつは殺すべきだ」
と、言われた、と答えたそうです。
 これが大きな問題となりました。

 天風の弁護団は、その言葉は言わなかった、と証言してください、と頼みました。
 しかし、天風は
「男に2言なし」といって、聞き入れません。
 「その言葉は秦の始皇帝が言ったことばだから、おれを有罪とするなら、始皇帝も逮捕しなけりゃならないね」
と、言ったそうです。弁護団はたいへん困ったそうです。(つづく)




























 

サラ・ベルナール邸をついに発見

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サラ・ベルナール邸を発見

 サラ・ベルナールは、パリのペレール通りに住んでいました。
ペレール通りは、パリの西端に、南北に約10キロもある長い並木道です。
このあたりはパリでも有数の高級住宅街です。
青い屋根にマンサードのある、豪華なマンションが立ち並んでいます。
街路樹がつづき、路の真中に、さまざまな花のさく庭園がありますす。
(白と紫のペチュニア、黄色いガザニア、白いバーベナ、ピンクのコスモスなど)

 私は、ムダと知りながらも、会う人ごとに
「ひょっとして、サラ・べルナールの邸宅のあったところを知りませんか」
とたずねました。
 答えはきまって
「知りませんね」でした。

 ある花屋さんで聞くと、意外なことに、その年配の女主人が
「その先にあると聞いたことがあります」
と、その方向を指さしました。私はふたたび疲れた足をひきずって、妻と、そのあたりを歩きまわりましたが、ぜんぜん分かりませんでした。

 もう夕暮れでした。
 私たちは完全に諦めて、ホテルにもどるべく歩いていたときです。
 1台のタクシーが、目の前でとまり、中から中年の夫婦と、その娘さんらしき人が出てきました。
 私は「これが最後!」と心に決めて、そのお父さんとおぼしき紳士に、フランス語でたずねました。
「エクスクゼ・ムア・ドゥヴゥ・デランジェ・ムッシュウ・・・ジェ・アン・プロブレム」

 これは「魔法の呪文」とよばれているものです。
 パリで道に迷った時、この呪文を使うと、どんな人でも、かならず親切に答えてくれます。この呪文を知らないと、パリでは、いきなり道をたずねようものなら、答えは「ノン」で終わりです。


 この「魔法の呪文」の意味はかんたんです。
「だんなさま、ご迷惑をおかけして、まことに申し訳ありません。私は困っているのです」

 私がこの呪文をとなえながら、例の紳士に近づくと、なんと! その紳士はたちどまり
「サラ・べルナールの邸宅は、そこです。私の家の裏にあります」
と、英語で教えてくれました。目前にある彼の家も、圧倒されるような立派な邸宅でした。その裏にある!というではありませんか!
 しかも、その娘さん(25歳くらい)が、
「私がご案内しましょう。私は商社で働いていますが、上海に数年いて帰ってきたばかりです。私は英語が話せます」
 と、言われました。私は、パリに来てからひさしぶりに、英会話をして、サラ・べルナールのことや、この界隈の話を、彼女から聞くことができました。
 
 サラ・べルナールの邸宅は、ペレール通り120番(Boulevard Pereire 120)から、50メートルほど斜めに入った道に面しています。私はついにサラ・べルナールの邸宅を発見できたのです。建物の半分は取り壊されて、そこは庭になっていて樹木がたっていましたが、サラ・べルナールの伝記でみた、写真とおなじ邸宅が、そこにありました。
 
サラ・べルナール邸は、現在は弁護士の事務所になっています。でも、呼び鈴をおしても返答はありませんでした。
「今日は日曜日だから、弁護士さんはお休みのようです」と、娘さんは言われます。
私は、その異国趣味のロマンティズムを感じさせる、こった意匠の建物を眺めるだけで、満足でした。

 肺結核で病みおとろえた天風青年が、1906年、パリ駅から馬車をはしらせて、この邸宅にたどりついた情景を思い浮かべ、当時をしのびました。