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人が死ぬとき、心はどうなるのか?



先日テレビで、立花隆が「死」をテーマにした
番組をやっていました。
「人が死ぬとき、心はどうなるのか?」
という話です。

番組のはじめに、心とは意識ともいい、魂ともいう、
と説明されました。これは常識的にもまちがいですね。
正しくは、意識とは心のはたらいたときの「領域」です。
心があっても、意識がなくなるときがあります。
睡眠のときがそうでしょう?
眠っているときは、顕在意識はありません。(潜在意識だけがはたらいています)
心があっても、意識が消えることがあります。

魂とは霊魂のことですね。
それは真我の正体です。そして、霊魂には霊性という心があります。

天風先生によると、霊性心は広大無辺の大きなものです。
このような心の世界は、科学では解明できません。
なぜなら、科学は五官の感覚をこえたものは対象にしないからです。

心は、五感を超えた内観とか直観、などいう哲学的な能力でしか、とらえられません。
科学は意識についてしか研究できません。

テレビ番組で、立花隆は、世界中の著名な科学者に会見を申し込み、「死」や「心」について質問をしました。
そのとき、臨死体験とか、体外離脱などが話題となり、私は興味をもって、この番組をみました。
が・・・立花隆の達した結論は、
人の死とか心のようなものは、科学では解明できないという、当たり前のことでした。

天風先生は霊魂の不滅を説かれました。
そして、それ以上、死のような体験できないものについて、
あれこれ考えて悩むな、と言われました。
今自分が生きている現実を考えなさい、
そして生を精一杯いきること――それだけでいいんだよ、と。







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実我と仮我 2014. 9.25



瞑想を熱心におこなっている人は、
日常生活でも、ときどき心がフッと静かになっていること
に気がつきます。それは、あきらかに瞑想の効果です。
それは、すばらしいことです。
瞑想をしたときの心境が、潜在意識に記憶されていて、
それが、顕在意識にフッとよみがえってきます。

でも、日常の仮我の世界では、
なにごとに対しても、精神を統一し、はっきりした意識で
対応しなければならない。
また、日常生活では、ときどき「心を虚に、気を平らかにする」
必要もあります。心を静かにすませる、ということですね。

しかも、天風先生は、日常の仮我の世界で、
五感をみがくことをすすめております。
とくに、「見る力」と「聞く力」を向上させなさい、
ということです。
感覚をみがく方が、知識をたくわえることより、大切なんです。

瞑想は実我の世界ですが、
日常の仮我の世界を軽くみてはいけない。
両方の世界を大事にするというのは、
まるで「二刀流」みたいなもの。
天風先生は「二刀流」の生き方を奨励されているのです。

このような生き方を助言されたことは、たいへん意義深いものがあります。
このような教え方をされた思想家、哲学者、宗教家を私は、ただの一人も知りません。
天風ただひとりだ、と私は思っています。
(もしご存知なら教えてください。)
天風はきわめてすぐれた指導者だ、と私は思います。







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脳科学と瞑想 2014.9.14


脳科学と瞑想 2014. 9. 14

瞑想のときは、思考と感情は休止しています。
しかし、最近の脳科学は、大いに思考をはたらかせ、
感情を発散すると、ドーパミンがでる、といっています。
ドーパミンというのは、脳を活性化させ、快感をあたえ、やる気をださせる物質です。

脳科学は、大いに思考をはたらかせて、充実した仕事をすると、
ドーパミンが分泌されて、快い気分になる、という。
また、親しい友達と談笑して、自分の中にたまっていた感情を放出すると、
ドーパミンがでる、という。

だから、思考と感情をはたらかせるといい、と脳科学は主張している。
ところが、瞑想においては、思考と感情は休めるのです。

うえのことを前提にして、ある友人が私に、
「あなたの瞑想と、最近の脳科学がいっていることは、真逆じゃないですか」
と、たずねたことがあります。
そのとき、私はただ
「天風式瞑想と脳科学の主張は、矛盾しないものです」
と答えました。
なぜ、矛盾しないのか、ここに説明します。
(賢明な方は、これは前回のブログとおなじことだな、と気づいておられるでしょう)

瞑想は睡眠に似ています。どちらの場合も、思考と感情を休めております。
どちらも休息の世界の話です。
しかし、脳科学が対象としているのは、日常生活の活動の世界の話です。
瞑想とは別の世界の話です。

朝、目がさめて日常の活動にはいるように、
瞑想をおこなった後は、パッチリと目をさまして、日常生活にはいります。

正しい瞑想をおこなったあと、日常にもどると、心がプラス方向にセットされています。
なんの努力もしないで心が前向きに、ポジティブになっているものです。
そして、日常にもどったとき、大いに思考をはたらかせ、
感情は発散しなければなりません。

天風はこう言っています。
「(日常においては)自分の知識と能力の最善をつくせ。
考えるときは、どこまでも一念集中して考え抜け! 
そして、いかなる感情でも、これを禁止したり抑制してはいけません。
もっと無邪気に、天真爛漫に生きなさい」






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瞑想と日常生活 2014.9.10



先日、NHKの番組で、坐禅の話がありました。
禅宗の和尚さんが、坐禅の境地を説明されます。
「坐禅とは、心を空っぽにすることです。
心の外側では、いろいろな事象が起こっておるのですが、
そこから心ははなれて、ただ耳に聞こえているだけで、聞き流しておるのです・・・」

すると、インタビュアーの方が、たずねられます。
「私は坐禅をしたことがないのですが・・・心を空っぽにすると言われますが・・・この世界で、私どもは、いろいろな出来事に直面し、それを思ったり考えたりするものですね。それを止めてしまえということでしょうか?」
和尚さんは、ちょっと困惑された表情でしたが、また気をとりなおして、
「やはり、坐禅におきましては、思考はストップしております。なにしろ心を休め、心を洗うというのが、坐禅の妙諦ですからな・・・」
と同じことを、表現をかえて、いわれます。

インタビュアーの方は、なかなか納得なさらず、同じようなことをくりかえし、尋ねられます。
和尚さんの返事も同じことの繰り返しです。

この問答を、みなさんはどう思われますか?

禅の和尚さんは、「坐禅の世界」を説いておられるのですが、インタビュアーは、「日常の世界」の生き方を問題にしておられるのです。問答はどこまでいっても、平行線ですね。

「坐禅の世界」と「日常の世界」は別次元のものです。
同一の次元で話すことはできません。
坐禅と日常の生活は、別の世界です。
もっと正確に言うと、「坐禅(=瞑想)で達する実我の境地」と「日常生活の仮我の境地」とは、まったく違う、2つの境地です。(実我の境地とは、真実の我あるのみという境地。仮我の境地とは、仮の現象世界に生きる、仮の我という境地)

坐禅と、天風式の瞑想は似ています。
ただ、天風式瞑想は、禅宗の坐禅よりも、はるかに易しく、はるかに短い時間で、明確な効果を生み出します。坐禅は難しく、長い時間をかけて、ほんとうの自分をつかもうとします。しかし、坐禅で目的を達する方はきわめて稀です。
天風式瞑想はだれにでも、すぐにできます。

瞑想を終えたとき、私たちは「日常の世界」にもどってくるのです。瞑想の気持ちをひきずってはいけません。
「日常の世界」にもどってきたとき、私たちは、まじめに直面する諸問題を考えねばなりません。おおいに思考をはたらかせます。

瞑想では、感情は消えています。
しかし、日常にもどったとき、おおいに豊かな感情を発散すればいいのです。喜怒哀楽の感情ですね。おおいに喜び、腹が立つときは怒る。悲しいときは泣き、楽しいときは笑うのです。ただ消極的な感情は、いつまでもひきずらない方がいいにきまっていますね。

瞑想の世界に入れば、思考も感情も消えます。

瞑想と日常は、2つの別の部屋のようなものです。
日に何回か2つの部屋を往復するもよし。
日に1回、瞑想の部屋にはいるもよし。
日常の部屋にもどったときは、ちょうど朝眠りからさめるように、瞑想からさめるものです。

世間のかなり多くの方が、そこを誤解されています。
瞑想の気持ちで、日常を生きるのだ、と思い込んでいる人が、意外にたくさんおられます。
これが、瞑想を理解できない、大きな壁になっています。






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意志を強くする 2014. 9. 2



先日、「ざく天会」の人たちのお集まりで、「意志の煥発」ということを話し合いました。
そのときのお話を要約してここに記します。
まず、意志はどこからでてくるか? 
これはクイズです。皆さんも考えてみてください。
つぎの6つのなかに、その回答が複数あります。
1.脳 2.心臓 3.心 4.霊性心 5.霊魂
6.真我

正解は、5と6でした。

つぎに、意志とはなにか?
1.実行力 2.精力 3.胆力 
4.自己統御の力
5.悪い本能にうち克つ力 

正解は1,4,5でした。

さいごに、意志をつよくする(煥発する)方法ですが、
答えは、天風式瞑想法(=安定打坐密法)です。
天風の「研心抄」には、
「鎮心行」(p88)と表現されています。「瞑想」(p90)ということばも使われています。
このお話合いは、私にもたいへん勉強になりました。
ありがとうございました。












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