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天風誦句 現代訳(2) 2014. 10. 29



2.心身の完成
人の本体は、心でも身体(からだ)でもなく、霊魂である。
心も身体(からだ)も、
人の命である霊魂が、
この世に生きていくための道具である。
だから、心と身体(からだ)のもつ性能を
たかめる必要がある。

名工名匠といえども、立派な道具がなければ、
すぐれた作品をつくることができない。
同様に、ほんとうに安定した人生に生きるには、
この命の道具である心と身体(からだ)を、
より良い状態にすべきである。

こうしてはじめて、
ほんとうの人生幸福をつかむことができる。
このことをはっきりと悟ろう。
そして、心と身体(からだ)をきたえる努力を惜しむまい。

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このような暗示の言葉を唱えると、瞑想や体操をやる気がでてきます。
私は毎朝この誦句をとなえて、瞑想と体操・呼吸法を実行しています。

やさしい現代訳でも、誦句のもつ暗示の力は十分あります。
若いひとたちは、こういう現代訳で暗示をかけるのがいいでしょう。
分かりやすい方が、効果があります。

私のような年配の者は、緑の誦句集でも、すこしもむつかしくありません。
年配の方は原文のままで唱えてください。

私の現代訳は、原文よりすこし短いです。
短い方が、暗唱しやすです。

暗唱と聞いただけで、ウヘェと思う人がいるようです。
暗唱しなくてもいいです。
1年、毎日くりかえし唱えていると、たいてい覚えてしまうものです。
だって、好きな流行歌など歌っていると、すぐに覚えるような記憶力を、みなさんおもちなんですから。

心も身体も、人の本体である霊魂の道具にすぎない、という考え方は、ヨーガ哲学の基本です。
しかし、仏教やキリスト教やイスラムにも、
「霊魂が人間の実相であって、心も身体も仮のものにすぎない」
という考えがあります。しかし、その心や身体をきたえる、という考えが希薄です。
それに対し、ヨーガ哲学では、仮のものであっても、仮の世界に生きるいじょうは、
最大限に心も身体も鍛えるべきだ、と考えているのです。

天風哲学では、心をみがく実践の方法は、瞑想と誦句などです。
そして、身体をきたえる方法は、呼吸法、体操などです。
心を研く方法には、ほかに官能の啓発(五感をみがくこと)があります。
とくに「見る力」「聞く力」を向上させることです。






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緑の天風誦句・現代訳


2014.10. 22

天風先生が書きのこした「誦句集」は2冊あります。
どちらも東京の天風会本部から1000円で販売されている。
黒い表紙と、緑の表紙の2冊です。
黒い表紙のほうが、易しく分かりやすく、夏の修練会での講話の時に解説されたものです。
緑の誦句集は、修練会を体験したあと、さらに深く天風哲学を会得しようとする人々のために、編まれたものです。

緑の誦句集は、内容的にも表現的にもむつかしい。
ひとつには、文語調の旧い文体で書かれているからです。
そこで、私は現代訳をブログにときどき紹介します。
表現がちがっても内容が同じであれば、暗示の誦句としてまったく同じ効果があります。

誦句集は、いずれも天風の教えが書かれたものではありません。
天風先生ご自身が、自分を鼓舞し激励するために、自己暗示のことばとして書きとめられたものです。
ただし、緑の誦句集は、天風の人生観、世界観、宇宙観が色濃くでています。

緑の誦句集の現代訳

(中村天風著『真理行修誦句集―瞑想行修用』天風会出版)

1.真の自己
真の自己とは
水火におかされることのない、
不朽不滅の
絶対的な実在(=霊魂)である。

人がこの信念をしっかりとつかんで
安心立命の境涯に生きるならば、
肉体的な苦しみも
人の世に生きる悩みも
夢か幻のように消え失せて、
無限にして最上の
歓喜の世界に生きることができる。
   
(1.「自我本質の自覚」 から)






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私の病気体験(1) 2014. 10. 17


私の病気体験 (1)

先日、塾生の小笹さんから、私の病気体験について質問をうけました。個人的な体験は、ちょっと恥ずかしさもあり、あまりくわしく話をしたことはありませんが、この際すこし今まで言わなかったことを書き留めておこう、とおもいます。
私の病気体験と天風哲学の実践が、天風哲学理解のきっかけになると思われるからです。

私は実は4度の病気体験をもっています。
そのうち2度は、重度のもので、あと2つは比較的軽いものですが、いずれも医療ではなおらず、すべて天風哲学の実践によって救われました。そのことが私に天風哲学の真価を、深く体験的に把握させてくれました。

最初の病気体験は、たいへん重い深刻なものでした。
18歳の時、京都の大学に入学してから数か月たったころ、私は体の変調を感ずるようになり、医者にかかったのですが、病因がなかなかわかりませんでした。
高校時代までは、私は人一倍元気で、なにをしても疲れを知らず、夜は熟睡し、10キロ、20キロ歩いても平気でした。
100メートル疾走では、いつもクラスでトップ。
鉄棒が得意で、懸垂は高校はじまっていらいの新記録といわれました。70回くらいだったか。

そんな私がたえず疲れをおぼえるようになり、学業はおろそかになり、勉学意欲が低下していきました。私は父の家があった広島にかえり、大きな病院で精密検診をうけました。そしてやっと病因がわかりました。

12指腸虫症とわかりました。下剤をのみ、寄生虫を駆除しました。ほんとうは1年ほど入院すべきでしたが、私は自宅で療養しようとしました。そして下剤をいくども服用した結果、12指腸虫症はいなくなったのに、きつい便秘になやむようになりました。そして、たえず体調を気にする消極的な人間になってしまいました。
病からなかなか回復せず、大学にもどって勉強する気にならず、実家にいて廃人同様の毎日でした。
英語やドイツ語が必須科目でしたが、1つの単語もおぼえられなくなり、文法などの理屈を理解するのが苦痛で、読む本といえば、宗教、哲学、思想関係のものだけでした。
しかも、本の消極的な部分にばかり共鳴し、人生に対して悲観的になり、不安・心配のとりこになり、暗いネガティブな気持ちが、累々と心に積み重なっていきました。

それから、なによりも私を苦しめたのは、そういう身体的な状況のなかで、人生問題に頭を悩ましはじめたことです。
「人はなぜ生きるのか?」
という生意気な疑問が私の心を占め、いろいろなキリスト教、仏教、西洋哲学の本を毎日読みあさりました。
教会やお寺に行って、牧師さんやお坊さんにお願いして、1対1で教えを乞うたこともあります。しかし、彼らは、私の疑問にこたえてくれません。私の心は闇の底に這いつくばったようになりました。消極的な観念、劣等な感情のかたまりになってしまいました。

それが天風先生の講話をきく機会をえて、身体的にも精神的にもすくわれたのです。講話の第2夜にかならず天風先生が教えられる「潜在意識の改善」(=観念要素の更改)で、私はよみがえったのです。

キリスト教の牧師さんは、
「人はなぜ生きるのか、ということは聖書にちゃんと書いてあるから、まずバイブルを読みなさい」
と言われました。私はバイブルクラスに数か月通いましたが、そのころの私には、私の疑問にたいする答えを、聖書のどこにも見つけられませんでした。人類愛といわれても、どうせ、いつかは人類も、この世から姿を消すんじゃないか。なぜ人は生きるのか? を教えてくれなきゃ、人類愛もクソもあるもんか、と思いました。(つづく)

浄土真宗のお坊さんは
「人はなぜ生きるのか? そんなことを考えるからダメなんだ。阿弥陀の救いを信じなさい。そして『なむあみだぶつ』を唱えなさい」
と言われました。
そのときの私にしたら、なぜ人は生きるのか、とたずねているのに、なにが阿弥陀だ、そんなものどこにいるんだ、なにが「なむあみだぶつ」だ、そんな言葉をとなえてどうなるんだ、と腹がたちました。

この私の疑問にたいして、天風先生は、私がたずねもしないのに、講話の第1夜に
「人はなぜ生きるのか? それは進化し向上するためだよ。この宇宙はたえず進化し向上しようとしているだろ。それを助けるために人は生まれてきたんじゃないか」
と、最前列にすわっていた私の顔を見て、おっしゃいました。
そのとき、天風先生のことばをしっかり理解したわけではありませんでしたが、この人についていけば、まちがいはない、と私は確信しました。




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霊魂の不滅 2014.10.. 6


これは前回のつづきです。

天風先生は、人は死んでから霊魂の旅をはじめる、と考えておられていました。
そして、現世に生きたすべての行為の報復を霊の世界でうける、と。
そして、この現象世界でよい行いをした人は、ふたたびこの世に生をうけて帰ってくる、と。

しかし、人間の死後の世界のことについては、
天風先生は、自分の考えを親しい人にもらされただけで、天風教義にはふくめておられません。
それは、個人の人生観(哲学)は自分できめるもの、という考えが根底にあったからです。

前回ご紹介した、立花隆の死についての話の結論は、
「体外離脱とか臨死体験は、死の直前に経験する幻覚にすぎない」
というものでした。
私はそれが正しいと思っています。

東大医学部の矢作直樹教授の結論とはまったく違います。
しかし、私は矢作さんをたいへん尊敬しています。
なぜなら、
矢作さんは、霊魂の不滅を大胆に主張しておられるからです。
これは天風の考えに一致しており、私はその点では矢作さんを支持しています。

立花氏の偉いのは、死後のことははっきりとは分からない、と認めていることです。
偉い人は、わからないことはわからないと、はっきり言われるようです。

たとえば降霊術について、天風は、
「ありうることだが、分からない」
と、言っています。
湯川秀樹も、随筆のなかで、天風と同じようなことを言っています。
とかく人は、分からないことでも分かったように考えたがるものです。
そして自分の都合のいい結論にとびつく傾向があります。
立花氏のテレビ番組で、いろいろ教えられました。
また、天風は、すでに同じことを直観的につかんでいた、ということをあらためて知って、感動いたしました。










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