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信州へ行きます


明日7月19日より、信州の山荘にしばらく(たぶん9月初めまで)逗留しますので、よろしくお願いします。
信州の住所:
〒391-0301
長野県茅野市北山蓼科、鹿山村B-2地区 沢井山荘
電話はケータイに:
080-8515-4673

信州の山荘でも、天風塾の活動はつづけております。
よろしくお願いします。
7月18日
沢井淳弘




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安定打坐考抄・解説 (3 ) 2015.7.17


安定打坐考抄・解説(3)

p.10~12
 禅とは一心(いっしん)ということである。
 禅とは、心そのものと、心の現れをいう。

(付記―一心とは、純一無雑な心ということ、つまり悟りの心、霊性心である。禅とは、一心になる瞑想である。禅は禅那の省略であり、禅那は梵語のディヤーナ(=瞑想)の音写である。したがって、禅は瞑想を意味しており、瞑想は一心に入る方法である。ここでいう心とは、霊性心のことである)

 お釈迦さまがインドの霊鷲山(りょうじゅせん)の山上で坐禅をして悟られたとき、その気持ちを「涅槃妙心(ねはんみょうしん」」と表現された。
(付記―涅槃も妙心も、仏の心(=悟りの心)を意味する。表現できないほど不思議な心ということ。これを言い換えると一心である)

 お釈迦さまの坐禅による悟りの心を、28代目の達磨大師が中国に伝えた。だから、達磨は中国禅宗の始祖といわれる。その中国の禅が日本に伝わったのであるが、その間、釈迦の坐禅の行法や、悟りについての説明は、その伝承者により、いろいろ変容した。
 しかし、禅が一心にいたる坐禅(=瞑想)であるということには、少しも変わりはない。

禅というのは、悟りの心、霊性心のあらわれであるから、
それが勇気となってあらわれたり、平静心となってあらわれたり、
滑稽、諧謔、頓智(ユーモア)となる。また巧妙となり、詩、歌、文章、言論ともなる。さらには、政治、外交、経済、教育、宗教、哲学、芸術、商業、工業、そのほか、あらゆる人生の事象となって、あらわれるものである。
 心がなければ、いろいろな人生現象は生じない。
 人間のなすこと、思うこと、すべて心のあらわれである。
 心がなければ、なにもなくなる。
 心をなければ、人生の意味も意義もなくなる。
 心がなければ、宇宙の万物さえも、無になってしまう。

 このように考えれば、禅というものは特別なものでもないし、不思議なものでもない。
 禅は深遠、幽玄、微妙なものである、と同時に、たいへん平凡なものである、といえる。
 歩くも禅、眠るも禅、飲むも禅、食うも禅、本を読むも禅、しゃべるも禅。いな、人間の心のあらわれは、すべて禅である。
 しかし、ここでいう心とは、多くに人がいう心ではない。
 ここでいう心とは、悪い心、邪な心、我欲の心ではなく、
先天の心、本性の心、真の心である。
 ほんとうの心は、正を正とし、邪を邪とし、動を動とし、静を静とし、真を真とし、偽を偽とし、善を善とし、悪を悪とし、角を角とし、円を円とする、公平無私の、本心である。それが禅(=瞑想)によって得られる心である。







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安定打坐考抄・解説(2) 2015.7.11


安定打坐考抄・解説(2)

前回につづいて、難解といわれる、中村天風著『安定打坐考抄』の解説を行います。

p. 5~9
禅宗の坐禅の目的と、私の安定打坐法の目的は同じものです。つまり、霊的境地の開拓、一言でいえば、悟りです。また、禅にはヨーガのダーラナ密法(=集中の方法)を取り入れようとした形跡もありますので、禅宗の坐禅と安定打坐法は、似ているところが多いのです。
 しかし、禅宗の坐禅と安定打坐法には、大きな違いがあります。ひとつは、前者の方法は、無念無想の会得が、たいへん困難であるということです。ましてや、瞑想の極地である「三昧(ざんまい)」に、禅によって達することは、常人にはムリです。
 私の提案する安定打坐法では、無念無想に達することは容易で、常人でも何年か続ければ、三昧を体験できるようになります。
(付記―三昧とは、サンスクリット語のsamadhiを音写した漢語で、超能力を開発できるような、瞑想のもっとも深い霊的境地を意味します)

 そこで、皆さんは、しばしば世間で話題となる、禅とはなにか、を知っておくことが必要です。ところが、たいていの人は禅について、いろいろな誤解をもっているようです。
 禅はたいへん難しいもので、その妙境に入るには長い年月にわたって、難行苦行をしなければならない、と考えている人が多いのです。したがって、少し禅をかじって諦める人が多い。
 また、昔から禅を説く人たちが、禅をなにか非常に幽玄なものであるように語る。そして抽象的な漠然とした議論でおわることが多いのです。その結果、禅を妙な、不思議な、へんてこなものと、多くの人が考えております。
 特に、禅の専門家は、やたらと仏教的な述語をならべたてるので、やさしいことも分からなくなってしまう。
 まちがった禅を、正しい禅のごとくに錯覚している人が多い。また、禅の一部だけをみて、それが禅の全体のように思い込んでいる人も多い。
 禅をやった人が、脱線的な行為や突飛な言動をすると、それが禅の妙諦と勘違いする人もいる。一休さんのように、滑稽なこと、奇抜なことをするのが禅だと信じている人もいる。
 一休禅師の滑稽は、独特な個性からうまれた、禅的表現の一種にすぎません。

 禅の「公案」という謎かけのような問答に、はまり込んでいる人もいます。これは「きつね禅」とか「釣られ禅」といわれるウソの禅です。「公案」と称して、非常識な問答をしてみせる禅僧がいます。そんな悟ってもいない人を、悟っている人と思い込んでいる。
 やたらと結跏趺坐をして苦しむことが、禅の修行だと勘違いしている人も見受けられます。
 ほんとうの禅とは、そのような非常識な、へんてこなものではありません。
 公案と呼ばれるものは、いわば無用の遊びにすぎません。

(付記―禅の臨済宗では、さかんに公案とよばれる対話を行う。一方、曹洞宗(そうとうしゅう)では、もっぱら坐禅を行う。福井の永平寺や横浜の総持寺は曹洞宗です。天風は総持寺の管長、石川素堂と縁があり、石川素堂は天風式の効果的な瞑想の方法を学んだ。総持寺には、今もその伝統がうけつがれているようだ。)






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[『安定打坐法考抄』 解説 (1)



『安定打坐考抄』 解説(1) 2015.6.5

 中村天風著『安定打坐考抄』がむつかしい、とおっしゃる若い方が多いので、その解説をここに書きたいと思います。
この解説を読んでいただいてから、原文にもどっていただければ、よく理解されると思います。

p1~4
 安定打坐密法を、私(=天風)は「ヨーガ式坐禅法」とも呼んでおります。その理由を知れば、この方法が、いかに幽玄な真理に基づいているか、ということを理解していただけるでしょう。
 (以下、安定打坐密法を略して、安定打坐法もしくはただ安定打坐とよびます。)
 安定打坐法は、ヨーガ式の瞑想をヒントにして、私が創案したものです。そして、どんな下根(げこん)の人でも、すぐに実行できるように、科学的な手段を応用しております。(下根の人というのは、とくに宗教的なことを会得するのが遅い人、という意味です。)
安定打坐法にからまる真理をよく理解したほうがよろしい。なぜなら、とくにインテリ階級の人は、自己流の理知的な批判をおこなう傾向があるために、安定打坐法の目的を正しく理解できない場合が、しばしば見受けられるからです。
 まず理解されたいことは、昔からわが国にある禅宗の坐禅も、私の安定打坐も、どちらもヨーガ式の瞑想を淵源とするもの、ということです。しかし、私の安定打坐は、禅宗の坐禅と比べると、集中の方法がかなり違います。
 安定打坐は、インド・ヨーガの「ダーラナ密法」からヒントを得ています。ダーラナ密法とは、瞑想に入る寸前の「集中の方法」を意味します。密法とは、文字通り「秘密の方法」という意味ですから、インドやネパールでは、ヨーガの聖者が弟子に言葉で説明しない方法、ということを意味します。
 ヨーガには、何百という集中の方法があります。その一つが、滝の音を聞くことです。しかし、普通の人は滝の音を聞いて集中しても、そこから瞑想の無念無想の状態にはいることは困難です。
 そこで私はブザーや鈴の音を利用して、安定打坐法をあみだしたのです。黒い点への集中も、ヨーガにありますが、それをどのように利用するかについて、ヨーガは教えてくれません。ヨーガというものは元来、言葉で教えないで、弟子が師匠の思いを察知して(いわゆる以心伝心)、自ら悟るものなのです。
 でも、私はくわしく言葉で説明しながら指導しております。現代の日本人は、言葉による詳しい説明がないと、まったく理解できないからです。その点、日本とインドでは文化がちがいます。
 安定打坐法の目的は、霊的能力の発現につながるトランスの境地に入ることです。英語のトランスとは、心が空になった状態、つまり無我無念、あるいは無念無想ということです。






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