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安定打坐考抄・解説(7)



安定打坐考抄・解説(7)

p26~27
安定打坐密法は、仏教の旧い修行である、日想観とか水想観、あるいは声塵得道などと比べると、天と地ほどの違いがある。なによりも安定打坐密法は、その境地に達する速度が速い。

 たとえば日想観というものは、その文字通り、日(太陽)を想い観る、という修行であるが、想い観るというのは、真我(真の自己)との同化でもないし帰納でもない。それに対して、安定打坐密法では、ただちに真我と同化したり帰納(=没入)したりできるのである。
 水想観にしても、ただ水を想観し雑念妄念を排除し、いつかは悟りを開こうとする企てである。
 声塵得道は、声を聞きながら雑念妄念をうちはらい、無我無念になろうとする修行方法である。

 安定打坐密法は、これらの方法とはぜんぜん違う。
 安定打坐密法では、声ではなく「無声」(空)をきくことによって、真我に同化し没入するのである。

 安定打坐密法では、雑念妄念の排除がきわめて速い。容易に純一無雑(=雑念のない、きれいな心)の境地に入れる。そして精神統一ができる。





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安定打坐考抄・解説(6) 2015、8、22


安定打坐考抄・解説(6)

p22~25
 われわれが、さまざまな現象に接するとき、ふつう直ちに「仮相上」の妄想なるものが生じる。
 普通に生活しているとき、眼は物を見、耳は音をきき、鼻は臭いをかぎ、舌は食べ物を味わう。また暑さ、寒さを皮膚が感じる。それはまるで、波がたえまなく岸辺の岩に打ちつけるようである。
 また、一方心の内側では、喜怒哀楽や愛情、憎悪、欲望が生じている。(これを7つの情念という)
 さらに、病の不安とか、生死の懸念などが、たえまなく心に動揺をあたえている。
 ところが、これらすべて、人の内、外に生じることは、私たち人間の「仮相上」の妄想にすぎない。

 この仮相とはなんであろうか?
この仮相を知るためには、それの反対語である、実相についても知る必要がある。
実相とは「まことの性」である。
仮相とは「かりの質」である。

これを具体的に説明すると・・・
たとえば、雪、あられ、氷、霜・・・の実相は水である。まことの性は水である。水の「かりの質」となって現れたものが、雪、雨、氷、霜など、という仮相なのである。
ところが、普通の人は、私たちを喜ばせたり悲しませたりする、いろいろな現象が、仮相、つまり、かりの質のものにすぎないとは、なかなか悟れない。
悟れないのは、なぜかというと、雑念妄念が心のなかにあるからである。(天風はここでは「妄想念」という言葉を使っている)
人が自己の霊性を自覚できないのも、雑念妄念があるからである。
だから、人がほんとうに幸せな人生にいきようとすれば、この雑念妄念を、心の中から取り除かねばならない。
雑念妄念をかんぜんにとりのぞけば、求めなくとも、霊性は自然にあらわれてくる。(付記、雑念妄念のなかには、こだわり、悩み、執着、消極的な感情などがふくまれる)
霊性があらわれてくると、神人冥合という尊い境地がでてくる。神人冥合とは、人が神と一体になった妙境、絶対的な幸福感のことである。

神人冥合の境地にひとたび達することができると、まるで暗闇に明かりが一つ灯ったように、人生には希望がつねに明るく輝く。
安定打坐密法は、この神人冥合の境地にただちに達する方法である。

安定打坐密法は、「自己の実相」と「宇宙の実相」と同化させる。
安定打坐密法は、「自己の霊性」と宇宙霊を同化させる。
安定打坐密法のユニークな方法とは、身外に「無声の声音」を聞くことを利用する、ということである。
(つまり、ブザー音や鈴の音を集中的に聞き、その音の絶えた刹那の静けさに没入する。「無声の声音」とは「シーンとした静けさ」のことである。)
安定打坐密法を実践すると、自己の霊性が自覚されるようになり、信念も強くなる。

なぜなら、安定打坐法を行うと、心が純一無雑(明るく澄み切った感じ)になるために、すべての雑念妄念が消え去るからである。雑念妄念が消えると、心の力が強くなる。そして自己統御ができ、心身が統一される。





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安定打坐考抄。解説(5)2015.8.14


安定打坐考抄・解説(5)

p18~21
 (付記―前回は慧能と神秀のふたりの禅僧の考え方を紹介したが、これらと、理入、行入の関係については、私自身納得できないので、その部分の説明はひかえる。しかし、天風は禅の一部にかたよった考え方を批判していることは明白で、これを銘記しておく必要はある。これは天風が禅の本質をみごとに把握していた証拠である、と私は感じている。)

 禅というものは、まず瞑想における「空」の境地を自覚(会得)しなければならない。そして次に、自分の生活が真、善、美に満たされるように努力しなければならない。それが人間らしい生き方なのである。
 生活が真、善、美で満たされるように、禅は独自の生死観、自我観、道徳観、修養観、処世観をもっている。それらが、私の天風哲学と、共通しているところが少なくない。なぜなら、私の哲学も禅も、ともに、インドのヨーガ哲学から出発しているからである。

 禅には、たくさん流派があるが、それらの根本的な原理は同じである。
 その根本的な原理とは、人の生命は「霊」なるもので保持されている、ということである。したがって、すべての人は尊い霊性をもっている。

 そして、自己の霊性とはなにか? ということを知ることが肝要である。なぜなら、人は、何事にも迷いやすい性向をもっているからである。この迷いやすい性向が、真の自己を不明にしてしまう。真の自己が不明になると、信念が弱くなってしまう。信念こそ、人生にとってもっとも大切なものである。
 信念が弱いと、人生は悲惨なものになる。信念を強くするために、自己の霊性を自覚し、何事にも迷わない人間にならねばならない。

 私の創案した心身統一法は、この「霊性の自覚」を実現することを目標としているのである。とくに安定打坐密法(=天風式の瞑想法)は、「無我無念」の心境を会得するためのもので、無我無念になってはじめて、人は「霊性の自覚」ができるのである。





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安定打坐考抄・解説(4) 2015.8.2


安定打坐考抄・解説(4)

P. 12~18
 禅の修行には、理入と行入の二種類がある。
理入というのは、理論的な説明をよく理解して、坐禅にとりくむ、というやり方である。
行入というのは、ひたすら行ずることによって、坐禅の妙境を会得するという、やり方である。
結論からいうと、いずれも大事なものである。
片方に重点を置きすぎると、禅が不完全なものになる。
とくに理知階級の人は、理入が大切である。なぜなら、すでに理知的な先入観があって、それで禅を正しく理解できないで、禅の価値を見失うことがあるからである。
 
理入と行入というのは、禅の種類で、どちらかを選ぶ必要があると思い込んでいる指導者が多い。
達磨大師は、修行の便宜上、理入と行入を区別しながら禅を説いたのである。
 達磨大師は、
「一切衆生は、本来如来の知恵徳相を具有する」と
いわれた。その意味は、
「すべての人は、悟りを開いた人と同じ知恵も、能力もあわせもっている」
ということである。
一言でいうと、
「人は各自の本分に安着せよ」
ということ。その意味は
「すべての人は生まれながらに長所、個性をもっているから、他人にあまり頼ろうとするな」ということ。

理入はしたがって先天的な能力を指すのに対し、
行入は、後天的な努力をいうのである。
だから、どちらも尊重すべしである。

禅宗は、主として行入を強調する傾向がある。
(付記―不立文字ということばに、それが表れている)
理入と行入は、ちょうど1枚の板の裏と表であって、両方をあわせて1枚の板を形成しているように、どちらも大切なものである。
(だから、私は瞑想の実行とともに、理論的な理解を諸君にもとめているのである)

達磨大師から5代のちの大海禅師の門人に、
慧能と神秀という2人の秀才がいた。
慧能は、
「本来無一物、何れの処にか塵埃を引かん」
といった。
この一文の意味は、
「人間は本来、清浄無垢な心をもっている。だから、人間は本来の心にもどりさえすれば、悟れるはずだ」
ということ。

神秀は、
「時に払拭して塵埃を引かしむる勿れ」
といった。
この文章に意味は、
「人間はとかく雑念や妄念に心が汚れやすい。だから、坐禅をして、それらの汚れをとりのぞくのがいいのだ」

慧能は、人は本来の心はきれいなものだ、と主張するに対して、神秀は、人は本来心が汚れやすい、と主張しているのである。
昔から、どちらが正しいのか、という激しい議論が果てしなく続いてきた。
どちらかが正しいのではない。
どちらも正しいのである。
つまり「人は生まれながら、きれいな心をもっているが、その心はまた油断すると汚れやすくなる傾向がある」
というのが本当なのである。





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信州から 安定打坐考抄・解説



信州の山荘にきています。
きのう、プロヴァイダーの人が来て、
インターネットをつないでくれました。
これでイーメールもできます。
京都と同じアドレスsawai@kyoto.zaq.ne.jpです。
以前につづけて『安定打坐考抄』の解説をブログに書きます。
よろしくお願いします。




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