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蓮月尼のこと 2015.10.30


蓮月尼のこと

先日テレビで、ある高名な書家が、蓮月尼の書をとりあげて、その細い、けれども強い筆線を鑑賞して面白い話をしてくれた。
久しぶりにテレビで啓発された。

そして、その蓮月尼の、筆圧の少ない、引っ掻くような線を、世間から離れた人の心だと、いう。
たしかに、蓮月は薄幸な結婚生活のあと、隠棲して尼になった人だ。
逆に肉厚な筆使いをする人は、社会とのつながりが濃厚だと、いう。
墨筆を走らせる紙面は、即「社会面」だと、いう。

なるほど!良寛のあの飄々とした、細く軽やかな線は、社会とのつながりの薄い人の心か。
また、顔真卿のあの肉厚なぼってりした太い線はどうだろう。この情熱的な義軍の先頭をきった武人は、たしかに社会と濃厚な折衝をもった。

それはともかく、私は蓮月尼に興味をそそられ、磯田道史の書いた『無私の日本人』を注文して、その本の最終章を飾る、太田垣蓮月の生涯を読んで、感動した。

いくらか蓮月尼について知っているつもりだったが、それよりもっと劇的な人生を生きた女性だった。

私の家の近くには、蓮月尼にゆかりのスポットがいくつもある。
それに蓮月尼が住んだ知恩院は、私の家の菩提寺の元締めであるし、知恩院が藤堂家から多額の寄進を受けるような、深い関係があるのを、私は知らなかった。
藤堂家は私の母方の先祖は、「滝」という姓で、磯田の書いた蓮月尼の物語のなかに出てくる。

磯田道史の文章もひじょうにいい。
歴史的な明快な説明のなかで、いかにも面白い物語が展開する。感動もある。






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カリアッパ師のこと 2015.10.27


前回のブログで、今里さんのゴーク村訪問のことを書きましたが、天風先生の恩師のカリアッパ師について知りたいと思う人が、実は多いのではないかと思います。
ところが、カリアッパ師については、ほとんど正確な情報とか、生涯の事跡にかんする記録がないのです。
今里さんによると、カリアッパ師はチベットの王族の一員だそうです。
その可能性は高いと私は思います。

どうして、チベットの王家の人がネパールにきて、インド・ヨーガの道場を開かれたのか?

カリアッパ師は、イギリス王室の招聘によってイギリスに行かれた帰り道、カイロで天風先生と奇跡の邂逅をされた。
カリアッパ師のなにがしかの生涯の記録がのこされているようです。それは首都カトマンズのチベット寺院の中です。
これは今里さんのお孫さんの拓哉さんの得られた情報です。拓哉さんは、前に触れたように、ネパール大学で民俗学を学ばれた方です。ネパール語も英語も堪能な方だから、私は信じています。

チベット寺院に保管されているカリアッパ師の記録は、門外不出の掟によって、私たちには長く神秘のベールに包まれている。
ちなみに、この寺院の中に、カリアッパ師の肖像画があるそうです。ただ若いころのカリアッパ師の姿だそうです。

なぜ、カリアッパ師のような偉大な聖者に関することが秘密裏に密封されているのか?
それはたぶん、
「無名のほうが悟りに近い」
という当地方の文化的信仰に基づくのであろう。

実際、カリアッパ師に関する生涯の細かいことは、大きな問題ではないでしょう。
また、天風先生の修行地ゴークがどんな所かということも、すくなくとも私には重大な関心事ということはありません。
私にとって大切なのは、天風先生の教えの中味です。
ただ、ゴーク村やカリアッパ師について興味はそそられるが、must knowというわけではありません。





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最近思ったこと 2015.10.17



最近思ったこと

知人の母親がガンだと聞いて、胸をいためている。
私の母はガンで死にました。大学受験の前の年でした。
ガンについては、私は慶応大学医学部の教授、近藤誠さんや、京都大学医学部を出た中村仁一さんの著書をたくさん読んで、大きな啓発をうけました。
『どうせ死ぬなら、「がん」がいい』 (宝島社新書) というお二人の対話は、よくまとまっていて、納得できます

中村天風の教えを伝えるときに、ヨーガ哲学に言及することがあります。
ところが、しばしばヒンズー教とヨーガ哲学を混同した質問を受けることが多いので困ります。
それは欧米でヨーガをひろめた、いわゆる聖者とよばれる人たちは、ヒンズー教徒で、ヒンズーの教えもまぜこぜにしてヨーガを教えてきたからでしょうか。

ヒンズー教は、ヨーガ哲学で修行した聖者の創始した宗教ではありますが、それはどこまでも宗教で、ヨーガは哲学なんです。
哲学と言っても、自己修練の方法論であって、むつかしい体系的なものではありません。
ヒンズー教を私は排撃するものではありません。
哲学的な立場にたつものは、全面的に宗教を排除するものではないのです。
なぜなら、宗教にはそれなりに人生や宇宙の真理を含んでいることが多いからです。

宗教と哲学はどう違うのでしょうか?
宗教は、ある特定の絶対的な根本的実在を(神とか仏とか)信じ、信仰することで救われようとします。
場合によってはフィクション(つまりはウソ)を信じることを大前提とするものです。
その結果、宗教は他の宗教は全面的に否定し排除します。

キリスト教の教会へ行って、「神さまというのは、けっきょくは仏様とおなじものですね」などといえば、帰ってくれ!といわれるでしょう。
仏教のお寺へ行って、「キリスト教の聖書にもいいことが書いてありますね」といえば、お坊さんは怒るでしょう。

哲学の立場はちがうのです。ひとりひとり考え方が違うことを容認し、真理は宗教の中にもあるし、他の哲学のなかの正しいものは平気で認めるという、自由自在のものです。

「リグ・ヴェーダ」は、ヨーガではありません。インド古代の宗教のひとつで、その天地創造の詩句は、日本の「古事記」のようなものです。
しかし、ヨーガを学ぶ人が、「リグ・ヴェーダ」に感動してもいいのです。

私は天風哲学を学び、自分の独自の哲学をめざしています。
そして、神話としては、日本人だからか、最近とくに『古事記』がとても好きです。
由良弥生さんの『眠れないほど面白い「古事記」』は、ほんとに眠れないほど面白かった。




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本の処理に悩む 2015. 10. 15


本の処理に悩む

今年の6月アマゾンが本の買い取りサービスを始めた、と聞きました。
私は、まず「ザンネン!」と思いました。
なぜなら、ちょうど6月ごろ、私は自分の蔵書の処理を完了したところだったからです。

たしかに時代は変わりました。
本を所有することより、読むことが重要になったのです。
個人の蔵書の時代は、終わったのです。

6年前に私は大学を退職してから、ここ6年間というのは、私にとって蔵書処理との格闘の時でした。
まず、大学の図書館で、私の蔵書のうち300冊を保存してくれるという認定を受けました。
私は快哉を叫びました。私のもっていた300冊は、歴史、文学、哲学関係において、他のどこにもない、きわめて貴重な本だと認められたからです。

それらの大半は、私がイギリスで掘堀したものでした。
禅やヨーガの貴重な本もあり、1冊10万から100万円もするものもあります。
しかし、それらの本は大学の図書館に行けば、今も読むことができます。
私は少しも損をしていません。

それから、大手の古本屋にお願いして、大半の蔵書を買ってもらいました。
それでもなお、沢山の本が手元に残り、自宅に持って帰って、今度は、私の書庫の床が、重みで抜け落ちる、という危険が生じました。

現在、やっとそれらの本の処分を終わり、とてもさっぱりした気分にひたっています。
それでも、実はまだ近所の家の6畳の部屋を借りて、そこに何冊かの本が残っています。
11月に、古紙回収に出すつもりです。
もし欲しい人があったら、喜んで無料でさしあげます。
もっとも、もうあまりいい本は残っていません。
でも1冊くらいいい本があるかも。




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ハワイのひろこさんのこと 2015.10.13



先週の10月6日、7日、ハワイのHiroko(裕子)さんが、京都に御来駕ありました。
このたびの裕子さんの旅の目的は、ロータリー・クラブの会に出席されることでした。
ロータリー・クラブの設立90周年の祝賀会が、京都でひらかれたのです。
京都の祝賀会はたいへん国際的なもので、中国、韓国、台湾などのアジア諸国の代表者が、それぞれ10数人のグループで来られたとか。
ぜんぶで200名くらいのお集まりだったようです。
それで、裕子さんは臨時の同時通訳のトランスレータを依頼され、大忙しだったようです。
それで、京都のランチ会の人たちとお会いできませんでした。
このことをご了解いただき、お許し願います。
私どもは、7日のお昼ご飯をご一緒して、わずか2時間くらいお話しできただけです。
お元気そうでなによりでした。
夫君のBobさんもご一緒でした。
ご夫妻そろってお元気そうでした。
この間のハワイのマラソンにも参加され完走されたとか。




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安定打坐考抄・解説 (10) 2015.10.2


安定打坐考抄・解説(10)

p34~37
 この天地には、宇宙の大生命がある。この大生命は、万物の活動をすすめる力の本源である。この大生命があればこそ、宇宙に存在する万物は、それぞれの活動にいそしんでいるのである。
 だから、万物の生と死は、すべてこの大生命の活動の結果にすぎない。
 「万物の流転は、宇宙の実相なり」
と言われる。
(付記―この意味は、すべてのものは、宇宙の中から現れて、宇宙の中に消えていく。これが宇宙のほんとうの姿である。)

 したがって、この真理を根拠として、人の命とはないか、を考えると・・・
 人の命とは、宇宙の大生命の中から生まれ出た、一つの小さな命である。私たちの生も死も、宇宙の大生命の支配をうけて現れる幽玄な(神秘的な)現象である。
 唯物論者や科学者の多くが、相対的な現象だけをとらえて論じている生死はまちがいである。

 宇宙の大生命は、すべてのものを創造した力の本源である。そして、人の生死は、宇宙の大生命の活動の現れにほかならない。
 もっとつっこんで言えば、人の死は、個別的な現象の小動から、本体である大生命の大動に入る、ということである。

 本体の大生命とは大海のごときもので、個別的な現象である人の命は、大海の中の一滴の水のごときものである。
 宇宙の大生命も人の生命も、同じ水であることに変わりはない。

 私たちが実習する安定打坐密法は、寂滅の声なき声(付記―ブザーや鈴の音を聞いたあとの、シーンとした静かな声)と同化するのだが・・・
これは、言ってみれば、小さな人の生命からはなれて、宇宙の大生命に没入するということである。さらに言い換えれば、人の小動から宇宙の大動に入るということである。
 したがって、安定打坐密法を行うと、先述した「動中静」
の心境に入れる。(付記―宇宙の大動とは「声なき声」だから「静」に該当する)
 だから、安定打坐密法を日々実行すれば、いかなるときでも、悠々として落着きのある生き方ができ、煩悩即菩提の安心した境地に生きられる。
 そして、動中静の境地に入る習慣をつくると、だれに教わらなくとも、人間の本来(=ほんとうの人間の生き方)が悟れるのである。





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