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哀悼 原 節子



哀悼 原 節子 2015. 11. 28

昭和の大女優、原 節子さんの訃報をきいた。
原 節子は、私の学生時代に活躍し、私が社会人になったころ、引退された。(昭和38年)
引退されてから、53年間、一度も公の場所にお出でにならなかった。
引退されたのは42歳、享年95である。

私は、50歳のころ、ニュージーランドの大学に赴任した。
実は、それまで小津安二郎の映画(原節子も)を見たおぼえがない。
ニュージーランドの大学では、日本語・日本文化を教えた。
そのとき、多くの人から、映画監督、小津安二郎に対する憧憬の言葉をきいた。
小津安二郎の映画に、原節子はしばしば主演しているのである。

ニュージーランドのテレビで、小津安二郎の「東京物語」が放映されたことがある。
翌日、多くに人から、
「東京物語、すばらしい映画でしたね」
という言葉をきいた。

私の学生のひとりは、小津安二郎の世界に耽溺し、日本に留学して、小津安二郎を研究したいとまで、言い出した。
私は、東大の蓮実教授に、紹介の手紙をかくハメになってしまった。
蓮実さんは、小津安二郎の映画芸術を学問の対象に選び、大部の著作がある。
異色の東大教授である。
東大総長を2年やっておられる。

私は日本に帰ってから、「東京物語」のDVDをみた。
そして、はじめて感動した。それまで私は迂闊にも、この名作を見たことさえなかった。
「東京物語」は欧米の映画界では(とくに専門家)世界の映画史上の最高傑作ナンバーワン、なのである。
「東京物語」のいったいどこが、そんなに素晴らしいのだろうか?
・・・私には、ずっと疑問だった。
もちろん、原節子の演技がいい、というだけではないだろう。

私は「東京物語」を10回以上見て、こんな結論に達した。
「東京物語」の魅力とは

1. 日本人の心の美しさ、が描かれている。
2. その美しい心というのは、無私、人への思いやり、など。
3. 日本人のユーモアのセンス
4. 小津安二郎のカメラの確かさ…視点とかアングル
        要するに、小津安二郎の映像芸術としてのすばらしさ

小津安二郎の映画は、私の心の「ふるさと」である。
「晩春」「麦秋」「彼岸花」「お早う」などがとくにいい。
これらの映画に出てくるのが、原節子さんである。
原節子さんの、内面からあふれでる明るさ、美しさ・・・存在感の大きな女優さんだった。







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ふたたび、パリのテロのこと


2015.11.24

パリ同時テロについて、まえに書いた。
それ以後もずっと、テレビでは、テロの議論や報道がなされている。
その多くは、納得のできない見方、皮相な観察の番組である。

私がなるほど、と感心したのは、NHKの特派員、鴨志田 郷
という人のレポートで、簡潔で、正鵠をえていて、説得力があった。
たいへん若い人だが、ずっとパリに在住してフランス社会をみてきた。
簡単に要点を記すと、つぎのようなことである。

テロの要因の1つは、フランスの国内問題――つまりイスラム系移民の2,3世である。
これがテロリストの温床である。
フランスはシリアの空爆よりも、自国の問題に取り組むべきだ。
フランスのイスラム系移民は、ヨーロッパでいちばん多い。
430万とも、500万といわれる。統計によってなぜかちがう。

移民の1世は、フランスで肉体労働をして、苦労することを覚悟してやってきた。
しかし、当時失業問題はなかった。
第二次大戦の直後、フランスは人口減少によって、労働力が不足していたからだ。

しかし、移民の2,3世は、フランス人として教育を受けながら成長し、平等という理念を聞かされながら育った。
ところが、いざ就職しようとすると、移民の子として差別された。フランスのこの欺瞞に対する怒りが憎悪となり、しだいに復讐心へ、自暴自棄へとすすむ。

アイデンティティの問題も彼らにはある。これは深刻だ。
彼らは、自分がフランス人なのか、アラブなのかと問う。
答えは永久にない。

フランスはまた、自由をとなえながら、イスラム女性のスカーフの着用を法律で禁止している。

イスラム系移民の若者たちは、半分くらい失業中だという。
彼らは自暴自棄にもなるであろう。そこへISからの誘いがあれば、簡単に火がつく。自爆も恐れない戦士になってしまう。
なんという不幸、悲惨であろう。
このような人種問題は、どこの国でも解決のむつかしいものだ。
しかし、この問題に取り組まない限り、テロは再び起こるだろう。
権力者は国民の目を外にむけさせ、中東で空爆を行う。なんという愚劣な行為だろう!





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パリの同時テロ


パリの同時テロ (2015.11.18)

パリに同時テロがおこった。
多くの政治家や評論家が、この事件について
「卑劣だ」とか「報復のため、ISを壊滅すべきだ」とか、言っている。
私はそのようには考えない。それで解決するわけではないからだ。

ところが、今朝のニュースで、
マララ(2014年のノーベル平和賞)さんが、
「テロは卑劣だが、フランス軍のIS空爆はもっと卑劣だ。武力による解決でなく、双方の対話を私は求めます」
と言った。私は、わが意を得たり、と思った。
空爆によって、テロはさらに、拡散するだろう。
ISにも言い分があるはずだ。それを聞いて、解決策をさぐるべきだ。
卑劣だとか、ISは犯罪組織だ、というような一方的な議論は、事実の認識がまちがっている。

なぜなら、中東問題のルーツは、オスマン帝国からのアラブ独立の戦争を、イギリスやフランスが支援したころに遡るからである。
第一次世界大戦の終わるころである。
周知のとおり、アラブの独立戦争が終了した時、英仏は、アラブの独立を支持するという約束を破って、シリア、イラク、トルコの国境線を、アラブの諸民族に相談もしないで、人工的に境界線を引いた。
そして、イギリス領、フランス領、をきめ、植民地化を開始したのである。
1920年ころの話である。

多くのアラブ民族は国境線をまたいで、生活するハメになり、国家と民族が複雑にからみあってしまった。それが中東の問題を複雑にしている。

イラク戦争の終わったあとの、アメリカ指導による政権樹立にも問題があった。
イラクは、シーア派が多数なため、スンニ派を差別して、諸政策の決定から排除したため、スンニ派の人々の不満がふくらんできた。
その不満がIC形成の一つの原因(温床)となっている。

対話や話し合いは難しいが、どこかで妥協し合う道をさぐるべきだ。
権力者は外部に敵ができると、よろこぶ。
決してむつかしい交渉はしないで、「断固戦う」と宣言して国民の団結をよびかける。
権力にいっそうの旨味がでてくるからだ。

「これからの世界の紛争の解決は、戦争や武力でなく、公開された雄弁によるものであるべきだ」
これは、天風の言葉である。
平和の大切さを説いたときの言葉である。







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七十の手習い


習字のこと  2015.11,14

このごろヒマをみて、書道三昧をあじわっている。
20歳代のはじめころ、篠田聴泉さん(日展審査員)も若かったころ(同い年)、親しくしていただいて、書を習い、師範の位に達したが、その後、英語教師の毎日で、管城を忘れ、50年以上も経ってしまった。

まさか墨筆をもつこともあるまいと、思って・・・
ある大学の学長さんからもらった、中国のおみやけ、高価な端渓の硯があったのを、若い人にあげてしまった。
ところが、東京の美術家、塩原さんが過日来塾されて、天風哲学をいっしょに勉強したとき、あとで「墨の美」を熱っぽく語られた。
それに触発されてしまって、墨や筆はあったので、町を歩いていた時、習字用の紙(伊予の手漉き和紙)を買ってしまった。あまりに紙が美しいので!

『文士の書跡』という本が手元にあったので、それで手習いした。
なんとも言えぬ快感があった。
心が落着き、書に集中する充実感をあじわった。
書というものは、集中せずにおられない。
これは「官能の啓発」だと思った。
まずお手本を「見る」からである。それに墨、筆、紙に対して「触覚」をはたらかせる。

『文士の書跡』では、三好達治、北原白秋が、のびのびした筆勢で、よくマネをした。
しかし、実は、悪筆の代表のようにいわれる萩原朔太郎の、奔放で、下手くそまるだしを恐れぬ、大胆不敵な筆跡が、私にはなによりうれしい。
しかし、マネはできない。
その逆の、伊藤静雄の、子供のような一所懸命なキチンとした字も好き。
だが、これもマネができない。
たぶん、この二人の詩人は、個性が強すぎるのであろう。

そのうち会津八一の平仮名と出会って、心ひかれた。
上手に書こうという観念をいっさい捨てた、気楽な平仮名である。これは、私にはマネができると思った。会津八一も個性は強いが、常識もゆたかだ。

漢字は、顔真卿を師と仰ぐ。
王義之を学んだことはあるが、上品で高雅で、その完璧主義は私には面白くない。
顔真卿の行書は、のびのびしていて、気楽で、しかもとっても美しい。




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天風の父、祐興のこと 2015、11.11


天風の父、中村祐興のこと

前回、天風先生のお父さんの祐興(すけおき)のことを書きました。
今回は、それを補足して、祐興の生涯のことを少し書きます。

まず、祐興が周囲の人から「開化人」と呼ばれていたことです。
これは、祐興が、進取の気象に富み、明治の文明開化のさきがけの一人だったことを示しています。
このような気象は、天風先生に伝わり、アメリカやヨーロッパに病をおして留学した果断な決心とつながっているようです。

祐興は、幕末の長崎で英語を学び、当時としては異数の英語会話力をもっていました。
その英語力も、天風先生に受け継がれたようです。

祐興は、のちに大蔵省で抄紙局長となり、紙幣のためのじょうぶな紙を発明しました。
従来の和紙製造の技術を生かして、絹の繊維を混ぜて、すばらしい紙幣用の紙を発明しました。
これは「中村紙」と呼ばれています。
専門家の間では、いまでも高い評価をうけています。

祐興は、一時、官を辞して、一介の製紙の技術者となり、薄給に甘んじて、製紙技術の開発に献身的な努力をした。
このような思い切った、「無私」の精神も、天風先生にうけつがれたのではないでしょうか。
祐興は、中村紙が発明できてから、ふたたび抄紙局長にもどっています。

祐興は、開化人といわれただけあって、明治4年に、「廃刀」の請願を政府の太政官に対して、行っています。
明治9年頃まで、旧士族は、あいかわらず腰に両刀をさして、往来を歩いていたようです。
祐興の請願は5年間、政府で論議されてから、採用され、明治9年に「廃刀令」が発布されました。

祐興は、肥後(熊本)の横井小楠に、実学(政治や経済学)を学んでいます。
横井小楠は当時、先見の明のある、もっとも優れた学者のひとりでした。
坂本竜馬も祐興と同じころ、横井小楠の塾で学んでいたらしい。
二人は話があったことでしょう。
坂本竜馬の、日本の未来を見る眼は、横井小楠によって養われて、と聞きます。
祐興も竜馬と同じような考え方をもっていた、と推測できます。

つまり、横井小楠は、徳川の身分制度をのりこえるところに、新しい日本の未来があると予言した人でした。
また、日本は貿易立国の道をあゆむべきだと提案しました。
それはそのまま、竜馬の行動につながっています。
そして、明治の日本は、まさに横井小楠の提案どおりのことを政策的に、実行したように思われます。






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天風先生のファミリー・ヒストリー 2015.11.7


天風先生のファミリー・ヒストリー

原田信の『中村祐興小伝』という本がある。
この本で天風先生の出自、血統がひじょうに明確になった。
この本には“―天風を育んだ開花人―”というサブタイトルがついている。
10年前に出版された本だが、私は先日読んで、私がかって主張していた天風の系譜について、確信をえた。
天風のルーツについては、松原一枝の本があるが、これは大きな誤謬をふくんでいる。
原田の『中村祐興小伝』は、一次史料をたくさん使って、天風の父、祐興の出生と系譜を明らかにしている。
むつかしい本で、おすすめはできない。

祐興の母は、千代子である。
千代子は、福岡県の柳川藩の藩主、立花鑑賢(かんけん、orすけかた)の側室となった。
(天風先生はよく、私の祖父は鑑徳だ、と話されたが、なにかの間違いである)
千代子は猷子(ゆうこ)という女児を産んだ。
この猷子が祐興の姉になる(異父)。

千代子さんは、美しい人であるばかりか、精神的にもすぐれた女性だった。
鑑賢自身がほめたという話が伝わっている。
千代子は、実家の中村家に跡取りの男児がいないので、鑑賢の許しを請うて、中村家にもどり、藩士西田一甫と結婚した。そして、長男祐興がうまれる。(1829年)

祐興の誕生は、中村家を狂喜させたが、それ以上に、祐興は、健康で頭もよく、将来性が大いに期待された。
祐興はその期待に応える成長ぶりで、鑑賢までも喜ばせた。
祐興は長崎に遊学し、英語を学んだ。
また、坂本竜馬とその貿易会社である「亀山社中」の浪士たちと知り合い、竜馬に金銭的な援助までしている。
祐興は自由につかえる巨額の資金をもっていた。
なぜなら、姉の猷子が嫁にいった小野家は石炭を採掘して、大金持ちになっていて、その潤沢な援助があったようだ。
それに、祐興は小野家の石炭販売にたずさわって、会計を任されていたようだ。

祐興は、明治2年、滋賀県知事(当時は権判事―ごんのはんじ―という)に命ぜられ、敏腕をふるった。
当時、琵琶湖に大洪水があり、その救済のため多額の公金を投じた。
それで人々の非難の嵐にあったが、のちに中央政府は、祐興の勇断と政治力を高く評価し、大蔵省にむかえた。
祐興が滋賀県の知事であったころ、大阪では五代才助が知事をつとめた。
五代については、今NHKがやっている朝ドラの「あさが来た」に出てくる。









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がんばらない 2015.11.4


がんばらない

曽野綾子の本がよく売れているというので、2.3冊買って読んだことがある。
いずれも、その主張は、「がんばるな、気楽に生きなさい」ということであった。
そんな分かりきったことを、わざわざ本を買って教えてもらわなければならないのだろうか。
それに「気楽に」といっても、気楽にできない人々もいる。気楽に生きる方法が分からない人もいる。

たしかに、この激しい競争の時代に、日本の人々は「がんばれ、負けるな」と追い立てられて、疲れているのであろう。

かって、私がニュージーランドの大学で1年間教えていたとき、時折日本と、日本に生きている自分を、客観的に見えたことがあった。
その時、日本とアメリカが世界のなかでも、気違いじみた競争の文化圏だと感じた。
そこで生きていた自分も、その競争の渦中にまきこまれて、余裕のなかったことを反省した。
NZは日本のような競争社会ではなかった。多くの人は他人を思いやる余裕があった。
私が教えた学生たちは、きびしい受験を経験していなかった。
21歳になると、だれでも無条件で大学に入れる。
彼らは、日本の基準からいえば、「がんばらない、気楽に生きる」人々だった。
彼らは、私の教える「日本語・日本文化」の単位をとるために、生徒どうし、大いに助け合うのだった。

 ところで、我らが天風哲学の教えるところ、を考えてみるに、その哲学は「積極的に生きよ」と教えており、「つねに意識を明瞭に」「官能をたえず啓発せよ」などと言っている。
とり様によっては、休むヒマなく、ガンガン前進せよ、がむしゃらに押していけ!というふうにとれるかもしれない。それは大マチガイである。
もちろん生き甲斐ある人生に生きんには、がんばらなくちゃならない時もある。
しかし、同時に「がんばらない、お気楽に、バカになって生きなさい」なのである。
人生は、要するに、「がんばる」「がんばらない」の2つの姿勢が交互におこなわれて、はじめてフローする(自然に流れる)のである。
クルマのハンドルと同じく、人生にも「あそび」がいる。
天風哲学の「あそび」の一つは、安定打坐密法(天風式瞑想法)である。
安定打坐法ほど気楽で、がんばらない時間はない。
安定打坐法は気楽の極地であり、がんばらない、の最たるものである。
というより、安定打坐密法は、自然に「がんばらない、気楽に生きる」コツを身につける方法、というのが正しいかもしれない。

思い起こすに、天風先生ほど気楽に生きている人はなかった。しかも断然ポジティブに生きておられた。真剣に講話をされるのだが、肩に力がはいっていることは絶対になかった。







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