2015年よ、さようなら
暮のご挨拶にかえて 2015.12.31
2015年も暮れようとしています。
みなさまには、よいお年をお迎えになりますように、
祈念いたします。
お蔭様で、今年は、私にとっては、喜びの渦の中にいるような1年でした。
ありがとうございました。
さて、天風哲学のユニークな点のひとつは、やさしく短い時間(5分~10分)で行える、呼吸法と体操があることです。
毎日これらを行えば、ヨーガ教室などで習う、複雑で長い時間を要する運動よりも、はるかに効果があります。
巷間のヨーガ教室では、身体がやわらかくないと、ひけ目を感じさせられて、やる気がなくなってしまいます。
天風式の体操では、身体のかたいひとでも十分に効果が味わえて、実行すれば健康を享受できます。
私の天風塾では、天風式の体操を12の部分に分けて教えますので、1回習えば、自分ひとりでもできます。
もっとも2,3回学ぶと、もっとよくなります。
天風哲学では、人生の目的は進化向上だと、教えています。
進化向上とはなにか、といえば、
自分の仕事をりっぱに成し遂げて生きるということに尽きます。その仕事には、家事や育児なども含まれます。それは立派な創造的行為であり、進化向上につながるのです。
仕事を成し遂げるには、自分の意志が煥発されなければなりません。
意志は、人の生命を支配する最高の権能をもっているからです。
「私は意志が弱いから・・・」
とか
「あの人は、意志が強い」などとふつう言いますが・・・
これはまちがっています。
どんな人でも、本来強い意志をもっているからです。
なぜなら、意志はその人の本体である実在(霊魂)から出てくるからです。
強い意志を煥発したいと思うなら、心を積極的にすればいいのです。
心を積極的にするには、心身統一法の実行です。
心身統一法とは、天風式の瞑想、自己暗示の誦句、体操、呼吸法などを総括しております。
天風塾では、それらのすべてを教えております。
よろしくお願いします。
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ほんとうの自己 2015.12.28
ほんとうの自己 2015.12.28
ほんとうの自己とは、霊魂です。
霊魂ということばに抵抗のある人は、実在でもいい。
「霊魂」は通俗的な世間一般で使われることばで、「実在」はふつう哲学者がつかう言葉です。
ほんとうの自分は
「水火侵しあたわざるの絶対にして、不朽不滅の霊魂」です。
これは、天風の緑の誦句集の冒頭の「自我本質の自覚」という誦句にかかれています。
私たちが、この霊魂の不滅ということを、ほんとうに強く信念すると、「歓天喜地」の世界が、自分の心の中に、あらわれます。
「歓天喜地」というのは、
「天にむかって歓び、地に対して喜ぶ」という
十分に喜びが満ちた気持ち、すなわち最高の歓喜ということです。
「歓天喜地」をただ「(最高の)歓喜」といいかえてもかまいません。
この誦句のなかに「安定」という言葉がでてきます。
これには「あんじょう」というルビがふってあります。これは、宗教的な含意があるときのよみかたです。
つまり「定」(じょう)とは「無念無想の境地」をあらわすのです。
禅定とかいて、「ぜんじょう」とよみ、」これは坐禅の別称です。
「禅」も「定」も坐禅、すなわち無念無想の境地、をあらわしています。
「定」(じょう)とは、「心が定まって静か」ということですから。
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霊魂と転生
霊魂と転生について 2015.12.18
天風誦句の中に、
「そもや仮相は実相の姿にあらず、またその本質の現れにもあらず」というのが、あります。
(緑の誦句集・2「心身の完成」)
この場合、仮相とは、
「心と肉体」です。
実相とは
「人の霊魂」です。
だから、上の誦句の意味は、
「心や肉体は、霊魂をあらわす姿でもないし、また霊魂の本質、つまり霊性、の表現でもない」
ということになります。
心や肉体は、霊魂がこの世で生きていくための道具です。
人の本体である霊魂が、この仮相の世界に生まれ出るとき、生きていくために、心と肉体という道具が与えられたのです。
人の霊魂は、人が生まれるよりずっと以前に、宇宙のどこかに存在していました。
人が死ぬと、その霊魂は心と肉体を捨てて、宇宙霊、または神、の懐に帰っていきます。
その霊魂は、いつかこの世に、別の人間となって、もどってくるかもしれない。
これを「転生」といいます。
インドのヒンズー教では、昔から転生が信じられてきましたが、私にはよく分かりません。
天風は、漠然と転生というものがありうる、と考えていました。
しかし、そう断定して人に教えたことはありません。
天風はよく
「死んでからのことなんか分かるもんか!」
と言われました。
天風の基本的な教え方は
「分かるはずもない死のことなど考えるな。それよりも、ただ今の生を十分に生きぬきなさい」
というものです。
しかし、天風先生はあるとき、
「人が死んでからのことを、私は研究したいと思っているんだけどね」
と、心の内を漏らされたことがあります。
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唯我独尊について
唯我独尊について 2015.12.16
「唯我独尊」ということばがある。
これは「ただ我独り尊し」と読める。
したがって「ひとりよがり」の意として、ふつう使われる。
しかし、私はこれに疑問をもっている。
お釈迦さまは、生まれたとき、一手で天を指さし、もう一方の手で地を指さし、七歩あるいて、四方を見渡し、「天上天下、唯我独尊」と言った、と仏教では伝えている。
お釈迦さまが、生まれたばかりとはいえ、「自分だけが尊い」などと、そんな不遜なことを、ほんとうに言ったのだろうか。
あるいは、仏教者もそのように考えているのだろうか。
「唯我」という熟語がある。
その意味は「無我」(=自由自在の境地)であると、仏教の辞典にはでている。
すると、釈迦誕生の時の言葉「唯我独尊」の意味は「無我独尊」すなわち、「無我ほど尊いものはない」という意味に解釈できる。
もう一つの説をのべる。
仏教では、「我」とは「大我」の意味にもつかう、という。
すると、釈迦誕生のときの言葉「唯我独尊」は、「ただ大我のみが尊い」と解釈できる。
「大我」とは「個人的主観や執着からはなれた自由自在の悟りの境地」と、仏教では説明している。
どうも漢字はやっかいである。
その原因のひとつは、仏教が本来儒教的な漢語をつかって、インド哲学を翻訳したところにあるようだ。
中国では、儒教と仏教は敵対していた。
この二つの教えが使用する漢字の用法が微妙に、時に真逆に、ちがってくるのだ。
それが漢字の世界の中に混在している。
仏教は、「否定を尽くして肯定に至る」という、インド哲学の影響を受けている。
それが漢字の字義を複雑にしている。
「我有って、我無し」などと、仏教(とくに禅宗)はいう。
これは坐禅の境地を表現しているのだ。
このときの「我」とは何ぞや? ということになる。
「我有って」の「我」は「真我」ということ。
「我無し」の「我」とは、「我執」のこと。(我(が)をはる、というときの「我」でもある。)
だから、「我有って、我無し」の意味は、
「本当の我があって、我執の我はないぞ」ということ。
このように、漢字はややこしい。
だからこそ、漢字の世界は面白い。
和語だけでは表現できないものが、漢字にはある。
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悟りについて
悟りについて 2015.12.. 12.
悟り、とはいったいどんなものか?
私は若いころから漠然と考えていたが・・・
悟りは、なにか遠いところにあって、人間の永遠の憧憬のような、雲霞のような・・・と感じていた。
しかし、私は最近、悟りというものを、ハッキリと自覚するようになった。
そのヒントとなったのは、天風先生の次の言葉、
「あなた方は、悟りというと、いつも向こう岸にあるようにおもっているんだね。そうではなく、悟りは真実がわかったときの気持ちだよ。だから、悟りというのは、自分のすぐそばにあることに、気がつかなきゃだめだよ」
この言葉は、天風先生の講話の記録テープのなかにあった。
数年前、私はそれを聞いた。
この言葉は、先生のご存命中に聞いた記憶がない。
それから、私は、悟りというのは、
あの天風式瞑想(=安定打坐密法)のときに感じる「シーンとした静かな気もち」をつかむこと、と確信した。
こんな話がある。
ある禅の高僧が、病に臥してくるしみ、心がなえて悩んでいたとき、ある人から天風先生のことを聞き、特別に嘆願して、枕頭に天風先生のご来駕をこうた。
天風先生は、当然ながら、その高僧をはげまされた。
そのときのことを、天風先生はのちに私たちに語って言われた、
「悟りを開いた高僧といえども、悟りを開いただけではだめなんだね。
悟った真理を実践しなきゃ。
悟りを開くことより、悟りを開いた後が大事なんだよ。
瞑想の「空」の気持ちがわかったら、毎日実践しなきゃ、なんにもならないよ」
私はだから、こう思っている。
一生、死ぬまで瞑想をやるんだ。
瞑想の境地を悟ったから、終わりということはない。
修行なんてむつかしく考えないで、瞑想を楽しむ工夫をしよう。
サンフランシスコに住んでいる作家のデイヴィさんは、
瞑想の境地を、do nothing, think nothing(=なにもしない、なにも考えない)と訳している。
これは名訳ではないだろうか。
禅では「空」「無」「無念無想」などと表現している。
デイヴィさんは、熱心な天風哲学の研究者で、道場を開き多くの弟子をもっている。
天風について数冊の著作がある。
プロの作家で、書道、華道、柔術など、日本文化に関する著作も多い。
だから、瞑想ほど楽な修行はない。
道元は、坐禅を「安楽への大門」と言っている。
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最近の本から 2015. 12. 3
『世界のエリートは, なぜ瞑想するのか』 という本が出た。
この本の説明している瞑想の方法は、あまり効能がない。
ただ、世界には瞑想をしている、といわれる有名人が多い。
次のような人の名前がでてくる。
マイケル・ジャクソン
マドンナ
オリビア・ニュートン=ジョン
クリント・イーストウッド
ビートルズのうちのだれか
スティーブ・ジョブス
ビル・ゲイツ
ビル・クリントン
ヒラリー・クリントン
稲盛 和夫
イチロー
長谷部 誠
これらの人が、どんな種類の瞑想をしているのか、はっきりしない。
世界には何百という種類の瞑想がある。
ただ、どんな瞑想でも、「心を静かにする」という一点で可能性があるならば、少しは効果があるといえる。
多くの瞑想は、「静かに坐る」という点で共通していることがおおい。
ただ、天風先生の発明した、鈴やブザーの音に集中するという方法は、抜群の効力がある。革命的な瞑想の方法である。
もっとも短い時間で、完全に「深い静けさ」を体験できるからである。
数ある瞑想の方法のなかで、T.M.が比較的効能がある。
T.M.とはTranscendental Meditation(トランシェンデンタル・メディテーション)の省略で、「超越的瞑想」と訳される。
T.M.(あるいはT.M.瞑想)は、自分の声に集中する。
声を恣意的に止めるので、静寂の没入する力が弱い。
しかし、ある程度、心は静かになる。上にあげた有名人でこれをやっている人がおおい。(稲盛さんは、天風式である)
ただ、T.M.の大問題は、ある組織(ヨーガ系の)がこれをとりしきり、その人に適した音声がある、と主張して、何十万円という入会金をとることである。
サンスクリット語のわけのわからない「音声」を教えてもらい、それを唱える。
自分の声に集中するとすれば、無意味な音声の方が集中しやすい。
T.M.といいながら、意味のある音声をとなえる一派もある。
これは、その言葉の意味が問題である。
ポジティブな言葉なら、それは瞑想でなく、自己暗示法になってしまう。
ネガティブなら、どうしようもなく、悪い方法である。
意味のある言葉をとなえて集中する方法は、ほんとうの瞑想とはよべず、自己暗示法になってしまう。マントラ瞑想といわれるものがそれで、自己暗示法としてやるのなら、天風先生の「暗示の誦句」とおなじような方法になってしまう。
私自身は、T.M.をすこし利用して、瞑想することもある。自己の単純な意味のない音声で集中をはかるのである。
ただし、これは人に話したことはない。まだ試験的な段階だから。
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