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自己陶冶 2016.1.31


自己陶冶   2016.1.31

自己陶冶とは、自己の心を研いて、向上することである。
自己陶冶とは、自己向上である。
自己を向上させる力は、自分自身の中にある。
もちろん、優れた人から教えをうけて、自分を向上させることはできる。
しかし、他人にばかり依存する心ではいけない。

自分自身で、自分の心の奥にある潜在的な力で、自己向上をするのがいい。
その潜在力を発現してくれるのが、天風式の瞑想である。

このようなことが、誦句「自己陶冶」(緑の誦句集、8つ目)の冒頭に書かれている。

この誦句には、
生命内在の力を発現するには、
「自己の心鏡を正しく、怠らず払拭することによって」
可能である、
と述べられている。
これは、瞑想をすることを、自己にうながしている言葉である。
この場合の「心鏡」とは、文字通り「心の鏡」と理解したらいい。

(ただ、本来「心鏡」というのは、仏教用語で、悟りを開いたひとの
「かがみのように正しく物象を映す心」の比喩として使われた言葉だった。)

私たちは、瞑想をおこなったあと、かならず暗示の誦句を唱えるのがいい。
なぜなら、瞑想によって澄み切った心は、積極的な暗示を、無条件に受け取るからである。

天風誦句は、毎日となえると、その人の信念を強くする。
と同時に、誦句は、その人の中に理想をつくりあげる。
理想をしっかりもって生きている人ほど、強い人はない。
理想をもたずに生きていると、その人には精気がない。

天風誦句には、すばらしい理想がたくさん鏤ばめられている。
それらの理想を、自分の中に植えつけることによって、力強い生き方ができる。
理想をもって生きれば、なにかの神さまを信仰する必要がなくなる。
「理想は、りっぱな宗教である」
という天風先生のことばは、上の消息を言ったものである。






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霊性の発揮 2016.1.24


霊性の発揮  2016.1.24

緑の誦句集の7つめに「霊性の発揮」がある。
その中に
「須らく問えよ、また訊ねよ、一切を魂の囁きに」
というのがある。
その意味は、
「すべての人生上の問題は、自分の魂にきいて、解決せよ」
ということ。

魂の声とは霊性、つまり本心、良心である。
魂の声に耳を傾ける行為が、天風式の瞑想である。

天風の誦句集には、瞑想を実践することの必要を、しばしば言っているのだが、直接そう書いてないのがふつうである。
それはなぜか?
――それは、誦句集なるものは、天風自身が自分をはげますために書いた自己暗示の言葉だからである。

「誦句集には天風の教えが書いてある」
と思っているひとがある。
それはまちがいである。

だから、天風には分かりきった実践の方法は、誦句には書かれていない。

同じ誦句の終わりの方に、
「無礙にして、はじめて自在なるを得ん」
とある。
「無礙」とは「とらわれのないこと」
つまり、心や肉体の状態にとらわれないこと、です。
つまり、心の悩みごとや、肉体の病にとらわれず、忘れ去る、ということです。
これは瞑想を実行しないとできません。
「自在」とは、自由自在です。
したがって、上のことばの意味は、
「悩みごとや、病にとらわれないで、それらを忘れて活動できれば、自由自在のすばらしい境地に生きられる」
というのです。

その次の行にある「心鏡止水」というのは、誤植です。
正しくは「明鏡止水です」
「明鏡」とは「明るい鏡のように澄み切った」心。
「止水」とは「波のない静かな水面のような」心。
どちらも、天風式坐禅の境地をあらわしています。








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心の開拓・2016.1.19


心の開拓  2016.1.19

天風式の瞑想を行うと、心が開拓され、霊性が発現してくる。
霊性は、いいかえると、「本心」のことです。
なぜ、霊性(本心)が出てくると、いいのでしょうか?
――それは、人生上の問題に直面したときに、正しい判断ができるからです。

ところが、多くに人は、理性の判断にのみ頼ろうとするので、間違えてしまう。
なぜなら、理性は絶えず進歩し変化するからです。
昨日正しいと判断したことが、何年かたつと、まちがっていたことがあります。

人生上の大きな問題に直面したとき、理性で考えると、ますます迷ってしまうことがあります。
そういうときに、霊性(本心)で判断すると、道が開けてくる。
理性で判断できるときは、それでいい。
ふつうの日常生活では、理性の判断でまにあいます。
理性も大事なものです。
とくに科学的なことを考えるときは、理性で考えねばなりません。

しかし、人生の岐路にたったとき――たとえば就職など――理性的に考えて迷うときは、霊性(本心)に耳をかたむけると、いい決断ができます。

私は、自分の進路を決めるとき、いつもそのようにして決めました。
後から考えて、あの時の判断を誤らなかったことを、天風先生に教わった瞑想法に感謝するのです。

ヨーガ哲学では、瞑想すると、
「思考が無限大に拡大する」
と言います。
この言葉は
「瞑想すると、霊性(本心)が出てきて、心が広くなり、認識が我執をはなれて、判断が正当なものになる」
ということを、体験的に表現しているのです。

緑の誦句集の6番目の「心の開拓」は、上のことを述べたものです。

私事をのべて恐縮ですが・・・
私は大学を卒業して、就職するときに、たいへん迷った。
給料の高い一流企業にするか、給料の安い教師の道を選ぶか、でした。
理性的に考えると、一流企業にきまっています。
親も親戚も友達も、みなそう言います。
「教師なんか、つまらんぞ!」と父は、断言しました。
ところが、私の本心は、真逆でした。
教師になることを思うと、給料は安くても、熱い情熱がわいてくる。さらに自信と安心感もありました。
結局、へたくそながら瞑想をくりかえし、教師の道をえらぶ決断をしたのです。
今では、あの時の決断を、つくづく良かったと思っています。
私の性格にあっていたのです。それを本心が教えてくれたのです。





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五感をみがく


五感を研く   2016 .1.15  

前回、官能の啓発(五感をみがく)について書きましたが・・・
去年、ハワイで講習をしたあと、ある人から
「日本舞踊は、官能の啓発になりますか?」
という質問をうけました。
答えは「イエス」です。

あらゆる種類の「おどり」とか「ダンス」は、必ず音楽の伴奏をしっかり聞かないと、できません。
だから、おどりは、まちがいなく、「聞く力」をのばします。
さらに、おどりは「体のバランス感覚」をきたえます。
バランス感覚を五感にプラスして、官能を考えてもよい、と私は考えています。

そこで、あらゆる種類のスポーツは、五感(とバランス感覚)をみがくことにつながる、といえます。
なぜなら、あらゆるスポーツは、「見る力」を養います。
戦う相手をしっかqり「見なければ}勝つことができないからです。
とくに球技は、ふつうの視力のほか、動体視力を強くします。

官能の啓発で、もっとも大切なことは、それが心を豊かにするという一大事実です。
心に栄養をあたえるということです。
心の栄養が、思考の元になっているからです。
まったく見えない、聞こえない状態では、心に栄養がなく、思考の作用そのものが行われません。

ヘレン・ケラーの例を思い浮かべる方がいるかもしれませんが・・・
彼女は、主に触覚にたよって生きたひとです。
奇跡の人と呼ばれたりしますが、それはちょっと誇張されすぎです。
その奇跡は、ヘレン・ケラーを献身的に24時間支え介助した、サリバン先生の力に90%依存していると考えるべきです。
現実は・・・日常の情景を見たり、音を聞いたりすることによって、心に栄養があたえられます。そしてはじめて思考がおこなわれるのです。

ですから天風は、五感をみがくことを修行の一つの柱としたのです。

だから、つぎのなにか一つを趣味として楽しんで、五感をみがかれることを、切におすすめします。
1.視覚芸術(絵画、書道、写真、彫刻、陶芸、版画、服飾、染色etc)
2. 音楽(歌、楽器演奏など)
3. スポーツ
4. 舞踊

すでに、そのような趣味をもっている方は、いっそうその道に精進されますよう。







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官能の啓発


官能の啓発   2016.1.8

緑の誦句集の4つ目に、「官能の啓発」があります。
「官能の啓発」とは、「五感を研く」ということです。
五感とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚です。

なぜ、五感をみがく必要があるのでしょう?
それは、認識力を高めるためです。
なぜ、認識力を高める必要があるのでしょう?
それは、外界からいろいろなことを認識し、「心の栄養」をとるためです。
「心の栄養」をとらない人は、その思考の内容が貧弱なものになってしまいます。

誦句「官能の啓発」の、うしろから3行目の「夢寝瞬忽の間」は誤植です。
正しくは「夢寝瞬息の間」(むびしゅんそく)です。
その意味は「夢をみるとき、寝ているとき、眼をまばたく(瞬く)とき、息をするとき」です。
つまり「人生の生きている一瞬一瞬」ということ。

たえず怠りなく、五官を研くように努力しなければならない。
これは、ちょっと難しいと思われるでしょうか?
そんなことはありません。
見たり聞いたりする趣味をもつことで、楽にできます。

五感の中でもとくに「視覚(=見る)」と「聴覚(=聞く)」をみがくのがよいでしょう。
なぜなら、この2つの感覚をとおして、人間は多くのことを外界がら心に受け入れて、栄養にしているからです。

「見る力」を強くするには、視覚をつかう趣味をもつことです。なぜなら、楽しみながら、見る力を養い、認識力が高まるからです。
視覚を使う趣味とは、絵とか書道です。写真をとるのもいい。
あらゆる種類の視覚芸術、ビジュアルアート、に関わると、自然に見る力が高まる。

「聞く力」を高めるには、音楽がいい。
歌をうたうとか、なんらかの楽器を演奏することです。
これは多くの人が趣味として楽しんでいますね。
それはただ楽しいからだけではないのです。
本能的に、それが自己の認識力を強くし、心に栄養がはいってくることを感じ、そこに快感がうまれるからです。








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一念集中  2016.01.04




あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。

ところで、さっそくながら・・・
創造主は、人間にすぐれた「集中力」をあたえています。
それは鍛えると、ものすごい力を発揮するものです。

私事で恐縮ですが・・・
私は瞑想を真面目にするようになってから(51歳のとき)
集中力が高まったと感じています。
大学を退職してから4年間に、6冊本を書きましたが、妻は私が原稿を書いているのを見たことがない、と言っています。テレビを見たり、本を読んだり、絵をかいたりして、遊んでばかりいる、と言います。

実際、私は著述といっても、思いついたことを傍らの紙にちょっとメモするだけです。
それは集中力のおかげです。
思いついたことを言語化するときの集中力です。
私は自分が少しもすぐれた能力をもっているとは思いません。瞑想に助けられているだけです。
だれでも、
①  瞑想し、
② ただ眼の前の一事に、集中することを心がければ、
集中力が高まってくる。

天風先生はもちろん、驚異的な集中力のある人でした。人が何を尋ねても、パッとその問題に強力に集中し、正解が霊感的にひらめく、といった人でした。

「ただ、なにごとにも一念集中する」といえば、
心の休まる時はないじゃないか! たいへんな労力で疲れてしまうじゃないか! と思う人が多いでしょう。
それは真逆なんです。

一念集中というのは、その対象に心をはりつけることではありません。(それは執着)
その反対で、一念集中とは、ただ「心をしずかに澄ませる」ということです。

瞑想をすると、それが楽にできるようになります。
瞑想をたえず実行していないと、「心をしずかに澄ませる」ということができないのです。

一念集中とは「心静か」ということにすぎないのですから、心を休めているのと同じで、心はまったく疲れないのです。

緑の誦句集の4つめに「心の鍛錬」という誦句があります。
その冒頭の一文に、
「神は吾人人類に、鍛錬すれば必ず鉄をも切るべき、精鋭なる切れ味凄き、名剣を与えている」
とあります。
その意味は、
「神は、私たち人間に、きたえれば鉄を切るほどの、鋭い切れ味の集中力(=名剣)を与えている」
ということです。
この比喩はちょっと大げさですが、要するに「強烈な集中力、そしてひらめき」ということを表現しています。











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