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幸福への誦句  2016.3.29



幸福への誦句 2016 .3. 29

自分の身の上に起こった事柄はすべて、自分自身にその原因がある。
緑の誦句集のなかの「幸福への誦句」には、上のようなことが書かれています。
しかし、常にこのように考えることは、時にむつかしいかもしれない。
ことに、大きな不幸や病におそわれたとき、その原因が明らかに他者にあると気づくときは、むつかしい。

たとえば、熊本の水俣病とか、新潟のイタイイタイ病などの、環境汚染に起因する病気の場合など。
それが明らかに社会的要因である場合は、もちろんその要因の除去にむかって社会的行動しなければならない。

しかし、多くの病は、自分の弱い心に起因している場合がおおい。
それは大いに反省するとともに、心を強くポジティブにするべく、自己変革せねばならない。
この心をポジティブにする方法につては、なんども話をしてきました。瞑想とか自己暗示とか体操のことですね。

ほんとうに幸福になりたければ、大事なことは、理想をもつことです。(誦句に書いてある)
私はこの理想をもつということについて、学生時代少々悩みました。
それは、天風先生の講話「理想の魔訶力」(『盛大な人生』所載)をきいて、その話の筋道はわかるのですが、具体的な方法が、わからなかったからです。

天風先生は、
「理想には、魔訶力、つまり魔法のようなすごい力、があるんだよ。
理想をもって生きている人を見てごらん。
とても力強い生き方をしていますね。
一方、理想をもっていない人の生き方は、力弱く、貧弱です。
理想をもつだけで、立派な宗教的な生き方ができるんです」
と言われた。
私はなるほどと思いましたが、その具体的方法は? と長い間長い間迷っていました。
天風先生は
「理想を自分の中に確立する方法のヒントとして、
① ひとたびかかげた理想は変えない。
② 理想はたえず自分の心の中に映像化して、たえず燃やしつづけること」
と言われた。

私はそこで、自分の理想をきめ、紙に麗々しく書いて、部屋の壁にはりつけて、毎日それをにらんでいた。
ところが、気が変わって、それを他の理想にとりかえたるようになりました。
これは①の教えにそっていない。

つぎに、②の「映像化」というのが、私にはなかなか納得できませんでした。
理想というものは、ふつう抽象的なものです。
それをありありとイメージできるように、想念をこらすことは、私には不可能だった。

60歳をすぎたころ、とつぜんこの2つの問題が、一種の霊感のように、解決できたのです。
理想を映像化することも、変えないということも、わけなくできる方法のあることに、気づいたのです。
どんな方法か、すでにお分かりの方も、いらっしゃるでしょう?
これは、次回に書きます。




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入聖開悟 2016.3.21


入聖開悟  2016.3.21

自分の心の中には、この世のすべてのものを正しく理解できるための、光が宿っている。
この光は、宇宙霊が私の霊魂にあたえられた慈悲のしずくである。
この光は、自分の霊魂と宇宙霊をむすびつける鉄(くろがね)の鎖である。
この光はまた、真理の扉をひらく鍵である。
この光が、自分の心の中に燦然とかがやくとき、いわゆる神の啓示が、私たちにあたえられる。

このような光を、私の中にかがやかせるためには、
ひたすら、真と善と美を心に思わせよう。
そして、なにが真(まこと)か、なにが善なるものか、なにが美しいものか、分別しよう。
この光は、やがて美しい悟りの花を、心の中に開かせる。
そして、私の命は、おののくごとき喜びに満たされる。

上は、「入聖開悟の誦句」(緑の誦句集、14番)のあらすじです。
真、善、美ということばは、天風がよく使った言葉です。

「真」というのは、ほんとうのことを、人につたえるときの気持ち、です。
まごころ、とか誠といっても同じでしょう。
誠心誠意といってもいいです。

「善」というのは、ほんとうによいこと。
だから、すべての人、すべての物に、「愛」をもって接する気持ちです。
「善」というのは、具体的にいうと、嫌いな人にでも「思いやり」をもつこと、
自分の身のまわりにある、どんな物でも大事にとりあつかう気持ちです。

天風は、古い筆箱に紙を貼って大事にいつまでも使っておりました。それを見た人が、
「そんな筆箱なんか、安い値段でいくらでも売っていますよ、新しいのに、かえたらどうですか」
と言いました。
その時の天風先生の返事、
「長い間、私の役に立ってきたくれた筆箱なんだよ。私はこいつに、愛を感じているんです」
この愛の気持ちが「善」です。

「美」というのは、本心から美しいと思う気持ちですから、たとえば花を見てきれいだなあ、と感動しているときの気持ちです。
花は、だれが見ても美しいのですが、その気持ちをもっと広くおしひろげて、多くのものに美を感じるようにしましょう、ということです。




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神人冥合 2016.3.16


神人冥合 2016.3.16

人の価値は、強い心をもっているかどうかです。
学問でも、知識でも、経験でもありません。ましてや、財力、地位でもなく、健康でもないのです。

人の心の力は、宇宙霊をその源泉としています。
宇宙霊はつねに、すべてのものを変化させ、新しくつくりだす力をもっています。
ですから、よりすぐれた、より価値のある人になりたいと願うなら、この宇宙霊の力を自分の生命のなかに、より多く受け入れさえすればいい。
心を強くするには、なによりも、瞑想をすることです。

宇宙霊の力は「ヴリルの噴泉」とよばれます。
これは、緑の誦句集の「神人冥合」という誦句にでてきます。
ヴリルというのは、「生命力」という意味のギリシャ語です。

ヴリルの噴泉を心のなかにもっている、というのが人の命の価値です。
このヴリルの噴泉が、あらゆる芸術、創作、発見、発明といった、人間の想像力のもとになっています。

「神人冥合」という誦句には、
瞑想のことを「我執の解脱」と書かれています。
我執とは「自己中心の欲望にとらわれている」状態です。
ですから、瞑想をすると、そのような「とらわれ」や「こだわり」から解放されるのです。

瞑想をすると、以前はつらい、苦しいと思ったことが、ふしぎに消えていきます。
瞑想をすると、ただちに宇宙霊の力が、自分の生命のなかに流れこんでくる。
しかし、それはすぐには感じられません。
毎日10分でも20分でも、つづけていると、その実感はかならずでてくるので、瞑想はやらずにおれなくなるものです。

「瞑想をやると、宇宙エネルギーが、電気のようにビリビリと身体ののなかに入ってきて、七色の光が見えたりする」
などというのは、ウソです。
このような言葉で、人に瞑想をすすめる人がいますが、その人は指導者として失格です。
瞑想の効果は、すぐに現れるものではありません。
時間がかかるものです。

瞑想で受け入れた宇宙のエネルギーは、深く心の奥に浸透していって、いつの日か、効果としてかならず現れるものです。
ですから、せっかちな人は、瞑想を途中でやめてしまうのでしょう。
とても残念なことです。

忍耐強く、無邪気に瞑想をつづけるしかありません。






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安心立命 つづき 2016.3.11


安心立命 つづき

宇宙霊なるものは、どこか高い天の上に存在しているのではない。
宇宙霊は、この世界に隈なく遍満存在している。
宇宙霊は万物の中にある。

存在しているからといって、宇宙霊は物質ではない。
宇宙霊は精神的なもの、霊的なものである。
だから、宇宙霊は心をもっている。
その心は真と善と美である。
さらにいえば、宇宙霊は愛と“まごころ”をもっている。
人が自然法則にしたがって、正しい生き方をすれば、宇宙霊の愛がおとずれ、人の生きる力となる。
しかも、人の霊魂は、つねに宇宙霊とつながっている。

このような考え方をしっかりもつと、それだけで、その人はポジティブになり、不安、恐怖などはなくなります。
そして、その人の「人生は、事あるも事なき日と同じく洋々として和やかなること、春の海のように」なります。

上の引用は「安心立命への誦句」(緑の誦句集)から、です。

上記のようなことを信じなさい、と天風は言いません。
ただ、天風の信じる宇宙観を提案しているだけです。
私は、天風のように、この世界を考えると、心の底から納得できるので、私自身の人生観の基盤に、それをおいています。

天風は、自分の人生観、世界観を人に強要しません。
そこが、いわゆる宗教家ではない証拠です。

ただ、天風先生は瞑想の方法や、自己暗示の方法を教え、信じる信じないとは別に、「これらの方法を実行しなさい。かならずあなたの人生は向上しますよ」と熱烈に説くのです。

誦句「安心立命」のさいご(p43)には、いくつか誤字があります。
「人世」とあるのはまちがいで、「人生」です。
人世ということばはありますが、その意味は「世間」ですから、「世間を価値なくする」というのは、おかしいでしょう。

「黒鉄(くろがね)」は「鉄(くろがね)」とすべきです。
なぜなら、「くろがね」は鉄(てつ)の古語ですから。
黒金(くろがね)という漢字を当てるのもよい。





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安心立命 2016.3.6



安心立命 2016.3.6

宗教家が「神」とか「仏」とかよぶものは、眼に見えないものです。
またその存在を(神の声)聞くことはできません。
神の声は無声の声です。
いいかえると、神の声は静寂です。
だから瞑想によって達する静寂は、神の声を聞いているといえます。
瞑想をして、心をシーンとした静けさにひたるとき、神と同化している。

昔の人々は、神や仏を眼に見える像として彫刻して、神像や仏像がのこっています。
昔の人々は、「見えないもの」であるということが、頼りなく思ったのでしょう。

「神」「仏」という表現は、あまりにも宗教的なので、天風はその代わりに「宇宙霊」という言葉を提案しました。
もっと科学的な表現を好む人が「宇宙エネルギー」とよぶのは、間違っていない。

天風がいう「神」は、キリスト教の神でしょうか、それとも神道の神でしょうか?
天風の場合、神道の神のイメージの方が強いでしょう。しかし、天風は、キリスト教をきびしく拒否するわけではありません。

天風はこう言っています。
「クリスチャンでも仏教徒でも、私の話を聞きにきたらいい。
それらの信仰を捨てたくなければ、捨てなくてもいい。より立派なクリスチャン、より良い仏教徒になりなさい。
しかし、ほんとうに私の人生観に共鳴する人は、キリスト教も仏教も必要がなくなるでしょう」

天風は、キリスト教のなかの「失楽園」の寓話を興味深く考察して、ここに看過できない真理がある、と考えました。それは『安定打坐考抄』に述べられています。
また、「はじめに言葉ありき」という聖書のことばを、これは真理だと感嘆している。

また、仏教の中でも禅宗の教えは高く評価している。
とくに禅の世界観、人生観、道徳観は自分の考えと同じだ、と言っています。
しかし、天風が禅とたもとを分かつのは、坐禅の方法です。
天風は禅宗の今の方法を否定する。
それは、ふつうの人は、禅宗では容易に悟れないからです。

天風は神道に対しては、面白い感じ方をもっていました。
神社の本殿に、神像ではなく鏡がおいてあることが、お気にいりだったのです。
鏡のような澄んだ心になろう、ということですね。
ただ、天風が神道をとくに研究された形跡はありません。

天風は、お寺やお宮さんに行ったとき、かならず両掌をあわせて拝礼されました。
それは信仰ではなく、敬意の表現でした。
天風は、世の中のすべての人に、敬意をもっておられた。それと同じ感じです。

「安心立命の誦句」(緑の誦句集)のはじめにでてくる「見えざる実在」という言葉ですが・・・
この「実在」というのは、哲学的な用語で、宗教的にいえば「霊」です。
科学的にいうと、「宇宙エネルギー」「宇宙生命」です。




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正しき活き方 続き 2016.3.1


正しき活き方 つづき 2016.3.1

天風の書いた誦句集は、すべて天風の教えそのものでは、ありません。(まえにもふれましたが・・・)
誦句はすべて、天風自身が、自分をこぶするために書いた自己暗示なのです。
ですから、説明というものがありません。

天風誦句には、瞑想や誦句と関連する言葉が多いのですが、瞑想や誦句ということばは、一度もあらわれてきません。
ところが、多くの誦句は、瞑想の実践を前提にして、その気持ちから、発想されております。
そう考えると、誦句の中のおおくの表現が、かんたんに理解できるのです。

誦句「正しき活き方」の第2文
「最善にして最上のもの」(p32)というのは、瞑想や誦句をさしていっております。
瞑想や誦句によって
「境遇や人を恐れない」(p33)気持ちになれ、
「立派な自己の運命の主人」(同じ)となれるのです。
「意志の力」(p34)も同じことで、瞑想や誦句によって、意志が発動するのです。
そして、
「一息毎に、わが生命の中に躍動する微妙なる宇宙霊の力」
(p35)が感じられるわけです。

「境遇改善の誦句」(緑の誦句集11番目)のp38に
「私は私の日々の仕事に誠を失わない」
とあります。
仕事こそ「境遇改善」のかなめです。
王陽明の「事上磨練」(仕事によって自己を練磨する)を想起する人がおられるでしょうか?

実際、陽明学は、天風の時代の空気でした。
明治維新から8年目に生まれた天風のご両親をはじめ、親族、教師たちすべて、王陽明の哲学思潮の中に生きていました。
というのは、明治維新をなしとげた、幕末の志士たちは、陽明の影響を受け、鼓舞されていました。
西郷隆盛や吉田松陰たちが、陽明を懸命に学び実践しようとしたことは、周知の事実です。
天風先生の養父、頭山満は、西郷隆盛の志を継承した人です。

私事になって恐縮ですが・・・
私の祖父は、中江藤樹の塾の近く(滋賀県高島市)に生まれそだちました。それで、中江藤樹と吉田松陰を尊敬しておりました。
藤樹は日本にはじめて陽明を伝えた人であり、松陰は中江藤樹をとおして陽明を学んだひとです。
祖父は、私に陽明や松陰の考え方を教え込もうとしました。
それは昭和も戦後のことですが。
つまり、少なくとも昭和の初めころは、陽明、松陰の考え方は、色濃く生きてありました。

敗戦直後、この伝統は、完全に意識的に抹殺されました。
陽明とか松陰という名前さえ、禁句となりました。
最近やっと自由に研究され、多くに人が興味さえ持ちはじめたことに、私は驚いております。

天風先生は、陽明という人の名前を一度も、戦後の私たちには口にされませんでした。
しかし、天風先生の人生観の大きな部分は、陽明の哲学に合致しているのです。




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