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人生の価値


人生の価値

いったい人生の価値は、どこにあるのでしょう?
人生問題を正しく考えようと思う人なら、まずはこの人生価値の主題に対して、決定した考えをもつべきだと、私は思います。

人生の価値というのは、もっと分かりやすくいえば
「人生いかに生きるべきか?」という問いに答えるのと同じです。
おそらく天風哲学をすこしでも学んだことのある人なら、
「そりゃ、積極的に生きる、ということでしょう」
あるいは
「心身統一でしょう」
と言われるでしょう。
これらの答えは優等生的な答えです。もちろん正しい。
しかし・・・
「では、なぜ積極的にいきるのですか」
とか「なぜ心身統一なのですか」
ときかれたら、なんとお答えになるでしょう?

そうです。“どんなときでも、心に喜びを感じながら生きていくため”――これが正しい答えでしょう。
“喜び”こそ、生命の本来の面目だからです。
“いつも心に喜びを”と考えると、快いからではありません。
もっと深いところに根拠があるのです。
宇宙の実在と人間の関係を考えると、まさにそうだ、と断定できるのです。
この世界の本質は、大自然という偉大な“いのち”が、ただ一つあるだけ、
そして私の“いのち”は、その大いなる命と永久につながっているからです。

私たちの人生は、生きてゆくためのいろいろな苦悩があまりにも多い。
ただそれを皮相的に考えると、“いつも心に喜びを”なんてただの理想じゃないか、という人もいるでしょうか。
たしかに人生にはいつも失望があり、落胆があり、悲しい恐ろしい事件が毎日テレビで報じられています。
だからこそ、なんです。
つとめて“心に喜びを”感じさせて生きる生き方こそ、生命の本来に即した、ただ一つ正しい生き方です。
残念ながら、そのように考えた思想家は世界にありそうで、ありません。
わが師、天風だけです。

では、人生で、ほんとうに喜びを感じるのは、どんな時でしょうか。
高尚な人生観を論じる人でも、ごく普通の人でも、これはまったく同じなんですね。
喜びとはどんなとき? ――これは次回にします。







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天風の体験

天風の体験

天風という人は、人生の疑問に悩み苦しみながら、
何年もアメリカ、ヨーロッパ各地をさまよい歩いて、
ついに悟りの境地に達したひとです。
そのことを、私たちはよくよく服膺し、
教えの尊さを感じとって、
実践にはげむべきです。

自分の体験を天風先生は、つぎのように表現されています。
「たとえていえば、行けども行けども砂と空、なに一つ目にとまらない、荒涼漠々たる砂漠の旅にも等しかった。なんの解決もない人生を、“倒れてもなお止まず”の決意で、救いのオアシスやどこぞ?と・・・」

「われには、わが心の奥に、もう一つの心がある。
われにはまた、真実と知恵の泉がある。
われにはさらに、祝福された“内なる自己”がある。」

この3行は、『ウパニシャッド』からの引用ですが・・・
天風は、この言葉がお気に入りでした。
それは天風が達した悟りの境地を表現した言葉です。
「もう一つの心」というのは、霊性心のことです。
“内なる自己”も霊性心です。
霊性心こそ、真実と知恵の泉なんです。
そして、私たちが霊性心に達するために、
天風式の瞑想があるのです。

この『ウパニシャド』というのは、
世界最古のインド哲学の精華で、
のちに仏教やヒンズー教の教えの母胎となったものです。




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信州から京都へ


京都に戻りました。

9月4日、無事信州から京都までドライブして、
懐かしい京都に帰ってきました。
帰ってくると、とても気分よく、
やはり私は、もうほんとうに、京都人になってしまった、
と思いました。

1か月と3週間、信州の山荘生活をして、
藤代編集長との約束で、課題となっていた本を
1冊書き上げましたので、
意義のある夏休みとなりました。

京都がいいのは、
私にとって魅力的で便利な、いい店がたくさんあること。
それに食べ物がとても美味しいことです。
信州にも美味しいものがいっぱいありますが、
何を食べてもちょっと固すぎます。
私の“いれ歯”には!

信州はやはり“そば”がうまいです。
これが腰がありすぎて、ちょっと固すぎる時が多い。

それから、“巨峰”とよばれる
種なしの大きな“ぶどう”は、
信州ならでは、です。これはかたくありません。
京都にも巨峰はありますが、
とても“たかじき”(高値)につきますね。

井上章一氏が『京都ぎらい』という本を書いたので、
読みましたが、
私は、“京都人というのは、京都府に住んでいるすべての人”だと思います。
井上氏は、京都人を“中京や下京に住んでいる人”だけに
限定していますが、
ちょっと賛同しかねるものがあります。






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