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町へ行きなさい



町へ行きなさい     2016・10・17

「この美しい野にとどまりたい」
と、私が言ったのに、あの人は、
「町へ行きなさい」
と言います。
「町には花がありません」
と、私が言うと、あの人は、
「花はないが、努力の生む幸福という栄光がある」
と言います。
「しかし、町の空は暗く、喧騒と耳障りな音があります」
と、私が言うと、あの人は、
悲しげに涙をながして、言いました。
「町には騒音だけでない。もっとある。
償わねばならない罪がある」
私は、
「町の空気は汚く重苦しく、太陽の光が、
煙霧にさえぎられて、見えません」
と言いました。すると、あの人は、
「それどころか、人々の魂は病んでいる。
太陽の光どころか、人々の魂に光が失われている。
それは、魂が未完成なためだ」
「私は光がほしいのです。それに、友達が、おまえが
いないと淋しい、と言います」
すると、あの人は、
「では、おまえの友達と私の、どちらを選ぶのか、
今夜考えてみよ」
と、言われました。
「それを考えるには、もっと長い時間がいります」
と、私が抗弁すると、あの人は言いました。
「それを決めるのが、そんなに難しいものか。
天理からみるとき、すこしも難しくない。
おまえの魂の指導者が指し示す道を、ただ
ひたすら行きさえすれば」

これはウパニシャッドの一節です。不思議なことに、
この二人の会話は、天風と、その師カリアッパの
別れのときを想起させます。
もっとも天風は、そのとき
日本への望郷の念を強くもっていたという
事実もありますが、
二人の内面には、
上記のウパニシャッドの会話にあるような
思いが、きっとあったことでしょう。

ウパニシャッドというのは、古代インドの哲学
だと、まえにふれましたが、ヨーガとは間接的な
つながりがあるようです。

ウパニシャッド的世界がヨーガを生み出した
という学者と、ヨーガの修行の中からウパニシャッド
が生まれた、という研究者がおりますが・・・
そんなに深く両者は結びついていないようです。
なぜなら、ウパニシャッドの中に、
ヨーガに言及した箇所が少しあるだけだからです。

ウパニシャッドには、古代のものから近代にいたるものまでさまざまあります。
○○ウパニシャッドというふうに複数の種類があり
それぞれ匿名の作者が存在したようです。
だから、ウパニシャッドは、
インド的な哲学の知恵の記録、
というべきでしょうか。

日本には、古来から、和歌や物語、日記などの
文学的な記録の伝統があるのに似ています。
インドでは文学ではなく、哲学なのです。
日本人はたいへん文学性の豊かな国民性をもっていますが、
残念ながら、哲学は得手でなかったようです。
わずかに、日本の哲学には、西田幾太郎と中村天風のふたりがいる、
といえば、言い過ぎでしょうか。




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心に喜びを



命の喜びとは?

いったい、なにが“生きる命の喜び”でしょうか。
この主題が一見むつかしいのは、人によって、人生観がちがうし、喜びの主題が種々あって、複雑だからでしょう。
しかし、すべての人間は、生物であって、個々の人間のもつ固有の“いのち”の真相を考えるならば、
答えはきわめて単純かつ平明だと思われます。

「いかなる場合にも、心に喜びを感ぜしめて生きる」ということは、
どのようにして現実化されるのでしょうか。
生物という存在は、なにをいちばん喜びとして心に感じるのか、
ということを考えてみます。
それは、生きることに対する目的が、完全に達せられたとき以外にはありません。
その卑近な例は、健康な胃に食べ物がじゅうぶんに満たされたとき、とか、
愛を感じている男女が相互の性欲を満たしたときに感じるものを、
正当に評価すると鮮明になります。

すべての生物は、その本能的な欲求が満たされたとき、
生きることに対する“よろこび”を、心に感じるのです。
人間だけが、心をもっているのではありません。
植物は植物心をもっております。
すべての生物は、心をもっているから存在を確保しているのです。

だから、「心に喜びを感じさせて生きる」というときに、
“いのち”のもつ本能を無視して、考えることは不可能です。
人生問題といっても、人が生物であって、本能とそこから出てくる欲求をもつ以上、
それをスターティング・ラインとして出発する以外に正念をえることはできません。

しかし、本能の満足を“本位として”人生を考える、という意味ではありません。

人間が、他の生物をはるかに凌駕する、優秀な理性、
ゆたかな感情、神の叡智を受け入れる霊性、
をもっていることを考えれば、本能の満足だけに、人生の喜びを限定してはなりません。
ただ「いかなるときも心に喜びを」という信条の現実的な方法を模索するとき、
人間のもつ生命の本能の欲求を無視することはできません。
そこで“健康“ということが、哲学的な問題としてでてくるのです。
健康でなければ、本能的な欲求を真実の意味で満足させられないからです。

ところが、古今東西の思想家、宗教家、哲学者は
“本能の欲求”についての考察が欠落しております。
健康を現実化するという視点も欠落しております。
宗教家などは、人間のもつ欲望をすべて捨てなさい、と言ってきました。
多くの哲学者ですら、欲望を否定するばかりか、健康についての思索がありません。

それは彼らが、既成の倫理や道徳にとらわれて、
“本能の欲求”とか健康に関する主題の考察がないからです。
なかには欲望そのものを、向下的なものであるかのごとく、蔑視しております。

本能の満足を、ただ否定するのではなく、
本能の欲求を正しくコントロールして、正当な方向づけしてやる、
ということが人生の先決的な問題ではないでしょうか。
天風という人は、こういう問題を真剣に考えた人です。





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