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力の使い方


力の使いかた  2016.11.25

中国の古い諺に
「琴をかなでるに、琴をして琴に演奏させるものこそ、
名人なり」というのがあります。
この気持ちというのは、琴の音調をかんぜんに自分のものにして、
自然に、なにも考えないで自然に演奏できる、理想の状態ではないでしょうか。

自分の得意なものは、そういうふうに円転滑脱に、力まないでもうまくいくものです。

要するに、肩に力が入って、力んで事にあたるという、不自然な状態がいちばん人を疲れさせ、
しかも物事がうまくいかないものです。

武道では
「変機に処するとき以外は、力を入れるな」
といいます。
たしかに剣道のうまい人の立ち合いを見ていると、肩に力が入らず、ゆったりと落ち着いていて、変機に応じて、とつぜん機敏に体が動きます。
人生すべての局面で、そうありたいものです。

天風は、
「力を使うとき、力まないで、力を自然に働くようにしなさい」
と言われました。

このように自分がなれるには、心身統一法しかありません。
つまり、心と肉体の両方を均等に、それぞれの自然法則にしたがって、生かしていくということです。すると、力まないで、自然に力が働くようになるのです。
これは、肉体に偏った考え方をしがちな、現代人がぜひ学ぶべき修養法なのです。

医学の進歩に感心するあまり、現代人は人間を考えるとき、あまりにも肉体本位で、肉体を物理的、化学的に考えがちです。
その結果、テレビなどで、食事や栄養の話にふりまわされる人が多い。これは嘆かわしいことです。なぜなら、それらの情報にあまりに固執して、食事や栄養を考えすぎると、それは迷信のようになってしまうからです。

とくに医学の知識もないのに、その種の宣伝をきいたり、もっともらしい説明をきくと、やたらと共鳴して、その結果いつしか、自分の精神生活に対する注意が、おろそかになってしまうのです。





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夢と現実


2016.11.14

夢と現実の交錯したものが、人生のすがたです。
私たちは、めざめているときも、なんらかの夢をもち、眠っているときも、
ある現実的な感覚をもっています。
昼間、たしかにめざめているつもりであったのに、
ある時間内のことは、ハッキリ意識していないということがあります。
それは、夢をみていたときのように、非論理的で、確実性を欠いています。

また逆に、夜、たしかに眠っていたはずなのに、夢の中で、きわめて論理的で
確実な思考をおこなっていた、ということもあります。

これらの事実を基にして考えると、
現実にそわない夢もないし、夢のない現実もありえないということになります。

しかし、現実に存在する問題は、現実に対する正しい理解と実行によってのみ
解決しうるものです。
つまり、漠然とした夢のようなもので、現実は解決がつかないのです。

天風が発明した心身統一法なるものは、
人生幸福という現実的な目的にむかって
創作された幾何学です。
また、天風式の集中と瞑想なるものは、
人間の意識の改革に対して
宇宙の摂理を微分化した、一連の方程式です。

正しい人生建設は、
なによりも自分の生命の中に存在する”自然”を霊性によって
正しくつかむことによって、はじまるものです。
人間は、自然のなかに自然のちからによって、その命を
生かされております。
哲学的にいうと、人の命のふるさとは自然です。
これを科学的に言うと、
人の命のエレメントはすべて自然からきているということです。

人間の生命力は、けっきょく自然の力を
心身に均等にゆきわたらせることによって、
充実するのです。

以前に引用したインド哲学の
「行ずることによって、自らを正しく救うことになる」
という言葉の意味を考えると、上に述べたようなことになるかと、
思います。




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見る力



見る力の修練     2016.11.8    

前のブログに書いた、見る力の修練というのは、
つぎのようなものです。
2人がペアとなり、一人が背を向けて見ていない間に
もう一人が、身近な品物をならべます。
たとえば、ハンカチ、ペン、コップ、ティッシュ、
手帳、ハサミ、などです。
背を向けてそれを見てなかった人が、
10秒くらい、それらの品物を見て、おぼえます。
そして再び背をむけて、見た品物を思い出して
言うのです。

気なしに見ると、いくつかの品物を忘れます。
明瞭な意識でしっかり見ると、ぜんぶ言えます。

この練習は二人でやると、楽しく効果があります。
そして、日常生活にもどっても、見ることが正確になります。

しかし、この方法は、一人ではできません。
天風は一人でやる方法は、自分で工夫しなさい、
と言っております。
みなさんなら、どんな方法を工夫しますか。

私の工夫は、ひとりで見る修練をするのに、
画集とか写真集を利用しました。
絵や写真をしばらく凝視して、ほかの白い紙に
黒いマーカーかペンで、見たものを思い出して、さっと
スケッチするのです。
慣れてくると、かなり複雑な対象をも正確に
描けるようになります。

そんな修練をしているうちに、私は絵を描くようになり、
彩色もするようになりました。

つまり、絵を描く行為は、見る力を養ってくれるのです。
やがて、書道をするのも同じことだと気がつきました。
写真を撮るのも、やはり写す対象をしっかり
見るかぎり、同じ効果があるでしょう。
つまり、すべてのビジュアル・アートは見る力を
養成し、認識力を高めるにちがいありません。

ビジュアル・アートには、ほかに彫刻、刺繍、裁縫、デザイン、陶芸、
動画撮影、CG制作、映画製作、漫画、イラスト、などなど、
たくさんあります。
これらの多くは視覚だけでなく、触覚も大いに訓練されます。
必ず手をつかい、
物に触れる感覚が必要となるからです。

そういえば、天風先生は80歳代のころは、修練間の期間中、
午後はいつも揮毫をしたり、絵をかいておられました。
それは弟子たちが、先生にお願いしたからでもありますが、
先生ご自身、それが五感を研くのに良い修練だと感じておられたからです。

聞く力ということになると、当然それは、音楽ということに帰着するでしょう。
歌、楽器の演奏、などあらゆる音楽的な活動は、聞く力
を伸ばします。

ほかの触覚、味覚、嗅覚においても、それぞれ自分で工夫してやればよい。
しかし、視覚と聴覚がもっとも大事な感覚です。
絵や音楽を楽しんでやればいいのです。
こんな楽しい修行はありません。

見る力、聞く力をのばすことが、認識力を高めます。
それが「官能の啓発」とよばれているものです。
認識力が向上し、官能が啓発されると、心の栄養がゆたかになるわけです。
それがその人の思想の中味を豊かにしてくれます。
もちろん年をとっても、認知症にはならないでしょう。



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五感をみがく


五感を研く    2016.11.1

“知る”ことは、聡明さをますことである。
“正しく考える”ことは、心をみがくことになる。
“五感を研く”ことは、心に栄養をあたえることになる。
“行ずる”ことは、自己を正しく救うことになる。

上の4行は、インド哲学の中で昔から伝承されてきた考えをまとめたものです。
今日は、3行目の“五感を研く”ということについて、お話しします。

五感とは、いうまでもなく視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚の5つの感覚ですね。
この5つの感覚のなかでも、視覚と聴覚の2つが、
人間の存在を保持するうえで大切なものです。
この2つが欠落すると、外界の認識がきわめて貧弱となります。

目がみえず、耳が聞こえなければ、まるで“もぐら”のようになってしまいます。
光のない暗闇の世界で、しかもなにも聞こえなければ、
ほとんど人間としての社会的存在はありえません。
それどころか、思考の内容がゼロに近くなってしまいます。

その逆に、見る力をきたえて、視覚の認識力が高まると、
外界の事象事物を観察する力が強くなります。
観察力がつよくなれば、物事の判断も的確になり、
その人の物を考える力も、すばらしいものになります。
さらに、いわゆる“心の栄養”が増加して、その人の思想の内容が豊かになります。
その結果、人生がたいへん楽しいものになるにきまっています。

上の消息については、中村天風著『研心抄』の第4章に書いてあります。
視覚をみがく実践方法も書いてあります。
また、緑の表紙の『天風誦句集』になかの「官能の啓発」にも、
五感をみがく大切さが書いてあります。
「官能の啓発」をやさしく言い換えると、「五感を研く」ということです。

天風は、この「官能の啓発」を、天風式瞑想法(安定打坐密法)と同じくらい、
重要な修養の項目にしており、夏の修練会のカリキュラムに組まれていました。
(昭和32年ころまで)
その修練会で、私は物を“見る”力の訓練を教えられました。

今でも、その訓練を毎日実践しています。
毎日わずか10分か20分でできます。
ただ興にのると、時間のたつのをわすれ、1時間ぐらいやってしまいます。
その見る力の訓練法については、つぎのブログに書きましょう。





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