人生は主観的に決定する
人生は主観的なもの 2016.12.21
人生とは、“自分が生きている”という実感の一瞬一瞬です。
だから、人生はどこまでも主観的なものです。
いいかえると、哲学的な内観によって、
内側から自分の人生を考える以外にないのです。
科学的な客観的な尺度で、人生の幸福は測れないからです。
だからといって、現代に生きる私たちの仕事は、多くの場合、
理性の力で科学的に客観的に考えて、進めるべきものです。
ただ、自分の仕事の意義とか目的とかを考えるときは、
哲学的にならざるをえない。
つまり、この二つの分別が大切です。
多くの人は、科学的な客観的な態度を選ぶか、哲学的な主観的な態度を選ぶか、
二者択一してすべてを考えようとして、混乱してしまう。
自分の人生は、哲学的な主観断定できめねばなりません。
どんな運命に遭遇しても、どんな病気になろうとも、虚心平気で対応してゆけば、
その人の人生は無事平穏な、幸せなものになります。
かりに他人が「私」を見て、不幸な人だと思っても、
私が自分を「幸せだ!」と主観的に断定すれば、
私は絶対に幸せなんです。
しかし、そうは言うものの、問題は実はここにあります。
大悟徹底した人ならともかく、私たちは凡人です。
だから、私たちの人生の大部分が、感覚や感情の世界で動いています。
その世界を超越して生きるということは、めったにできません。
だから、なんのトラブルもなく健康なときは、いかにも元気そうにみえるが、
ちょっとした病気にかかったり、運命的に困った事件が起こると、
たちまち意気消沈してしまうのです。
だから、病や不運に負けない、強い心をつくる必要があるのです。
そして、そのような頼もしい強い心を作るには、瞑想、
そして積極的な自己暗示をする以外に、
方法はないのです。
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日新ということ つづき
「日新」ということ、前回のつづき 2016.12.14
毎日まいにち、昨日よりももっと、自分を向上させようという決心が大事です。
「もう私も年齢(とし)だから、老化もしてきたし、向上なんてムリ・・・
」などと思うことが、よくない。
向上というのは、瞑想と誦句を知っていれば、実行さえすればできるんです。
要するに、瞑想で心を静め、そのあと自己暗示の誦句を朗誦すればいい。
かならず“向上している自分”が感じられます。
自分が向上していると実感できるほどの幸せはありません。
(●^o^●)
それが「日新」ということであり、同時に「体験的に真理に近づいていくということ」です。
現代のインテリがいちばん陥りやすい誤りは、人生真理を求めるときに、
理性ばかりで相対的にその核心をとらえようとすることです。
そうではなく、自分の本心から納得して「これぞ絶対!」という気持ちになるべく、
瞑想や“誦句の中味”を体験しなければ、ダメです。
この「本心から納得して絶対感をもつ」ということを、天風は「自証」といっています。
人生真理に対しては、論理よりも自証が大切です。
自己の求める人生真理に対して論理的な整合性をばかりをもとめるから、失敗するのです。
いかに理論的に立派で複雑で巧妙であっても、自証(本心からの納得)がなければ、
本当に真理が自分のものにならない。
理論の波の中に転々として翻弄されてしまう。
「学んで、いよいよ迷う」とはこのことを、
昔の人が言ったのではないでしょうか。
日々新たに、と念じて体験的に努力すれば、
本心から納得して絶対的な気持ちになれる。
これが自証です。
自証とは「自分で体験し真理を証明する」ことです。
だから、「日新」と「体験的に真理を求める」自証とは緊密につながっている。
体験的に真理を求めていけば、日新という気持ちが出てくるし、
日新を心がければ、体験的に真理にむきあうことになります。
上記のことはすべて、天風先生が私たちが、きびしく諭されたことで、
インテリのはしくれである私自身の常なる自戒でもあります。
けれども、現代の進んだ教育を受けた人はすべて、程度の差こそあれ、
インテリもしくはインテリ的ではないでしょうか。
理屈で考えるな!ということです。単刀直入に言えば。
ただし、仕事は、多くの場合、理屈で考えずには進みません。
しかし、人生真理に関しては、理屈で考えず体験的につかまねばなりません。
そして、日々新たに生きましょう。
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新生ということ
日新ということ 2016.12.7
日新ということばがあります。
これは「日々新たなれ」という孔子のことばを2字につづめたものです。
天風は
「一日一日を新しく甦る気持ちになれ」
と、教えています。
天風誦句にも
「私の人生は昨日までの人生でなく、溌溂とした生気があふれ、
敢然とした勇気でみなぎっている」
という暗示のことばがあります。
また
「私は今、心も肉体も新生しつつある」
というのもあります。
私は毎朝、この誦句をとなえるたびに、
78歳になる私の“老化を感じる気持ち”がふっ飛びます。
齢をとって肉体が枯れてきても、その肉体は新生しつつある、
というのは驚くべきことです。
“心が新生する”ということは、当たり前だと思います。
実際、日々新たにならなければ、進化向上などありません。
この“新生”という考えは、“真理を、理屈でなく体験的につかまえる”ということと関係がある、
と天風はいいます。
これはなかなか難解な哲学的問題です。
次回までに、この哲学的な問題を私が解くことができれば、このブログに書いてみましょう。
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