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健康難や運命難


健康難や運命難   2017 .4.30

人生は、健康難や運命難とたたかう世界ではありません。
ところが、これらのことで人生を終始せしめている人が多い。
これは嘆かわしいことです。

人生はもっと価値の高いものであり、健康難や運命難を超越して、
人生の目的である“進化向上”をめざすべし、です。

ある人から、
「天風哲学は、健康の話だからつまらん」といわれて、がっかりしたことがあります。
私の本や、天風の書いた本を正しく読んでいただければ、
そのような結論にはいかないはずなんですが・・・
「天風の健康哲学」といったようなタイトルの本も最近でていますが、
このような本は、出発点からまちがっている、ミスリーディングなものです。

天風の教えはもっと深いところにあります。つまり、もっとも単純化していえば
“人生いかに生くべきか”です。

天風の教える呼吸法や体操も、健康を目的としているのではないのです。
これらの方法は、上にのべた、進化向上を実現するために、
肉体的、精神的能力を高める方法です。

“進化向上”という言葉が抽象的で分からないという方には、もっと簡明に言い換えてみましょう。
進化向上とは、たとえば“自分の為さねばならぬ仕事や義務を遂行すること”と考えてください。
そして、“人生を楽しむ”ということです。
よい仕事ができてこそ、楽しく遊べるのが人生ですから。

健康が人生の目的であろうはずがないでしょう。
しかし、健康でなくてどうして仕事ができるんだ!と考えている人があまりにも多いので、
天風は、「こうすりゃ健康になれるよ」と時々言っているのですが、
健康は目的ではなく、手段ですね。

“進化向上”をさらに言い換えるなら“精神的な自己完成”といったほうが正しいでしょう。
これは、天風式瞑想法によってしか現実化できないものです。




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天風塾のこと、小豆島のこと


天風塾のこと、小豆島のこと    2017. .4.20

私の主宰する天風塾は、天風先生が創案された心身統一法を、個人指導を主として、
個人が一人ひとりもっている問題や疑問に答えることを主眼としております。

かって私は、天風会講師として、多人数の方の前で公開講演で教えた経験がありますが、
天風哲学を学ぶ人々には、大きな個人差があることに気づきました。
個人差の最たるものは、学問や知識のレベルです。
さらには、生い立ちや、今までの経験、現在おかれている状況の違いがあります。

とくに瞑想を教える際には、人によってすぐに瞑想の正しい心境を会得する人もあれば、
いろいろ理論的な背景を説明してやっと納得するまでに、
何回もの指導を必要とする人もおられます。

どちらの種類の人が優れているとは、一概には言えません。
なぜなら、簡単に会得してしまう人は、とかくその深奥な妙理に無頓着な傾向があり、
何回も勉強しないと会得できない人は、かえって、
ひとたび会得すると、強い信念をもって瞑想を実践される傾向があるからです。

******
先日、4月のなかば、妻と小豆島に旅をしました。(3泊4日)
小豆島は、私にとっては「二十四の瞳」という映画の舞台として魅力があります。
反戦の映画とか、家族問題の映画だ、という評論家が多いのですが・・・
私自身は、「二十四の瞳」は、なんといっても、“瀬戸内海の自然の美しさ”、
“人の心の本来の美しさ”を描いた映画だと、思っています。
さらに、BGMで流れる日本の童謡・唱歌の美しさ・・・
それらの唱歌の中に、「アニーローリー」というスコットランド民謡と、
「埴生の宿」というイングランド民謡があります。
どちらも私の好きな民謡です。





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瞑想は一瞬間なり


瞑想は一瞬である   2017.4.13

去年の夏、信州の私の別荘でのこと、ある訪問客が、
私に瞑想について一つの質問をしました。
「もし、瞑想に没入して、そのまま元に戻らなかったら、どうしましょう?」
 私には想定外の質問でした。

私の頭は回転しました。昔、ある年配の人が私に瞑想について話をしました。
「瞑想というものは、正しい瞑想家に習わないと、精神的なリスクがあるそうですよ」
 私はその訪問客に、こう答えました。
「瞑想から日常の現実に戻れなかったら、
・・・それは危険なことでしょうか。そんなことは絶対にありえないのです」
なぜ絶対にありえないのか、その理由をそのとき説明できませんでした。
 
ところが、それから2,3日たってから、・・・
 当時私は、信州の山荘で、天風著『安定打坐考抄』の現代訳を執筆していたので・・・
その仕事にとりかかり、
たちまち、次のような天風の言葉が私の注意をひきました。
「有意実我の境地とは、・・・意識も感覚もはっきりとしていて、
しかもそれらを超越し、思考と感情は滅却している・・・そのような一刹那をいう」
 この文をみて、私はなんども読んだこの本の心の部分をいままで気なしに読んでいたことに、
驚きました。
「有意実我」とはすなわち“瞑想の状態”です。

 そう、正しい瞑想の状態とは、一瞬なのです。
あのシーンとした深い静かなきもちは、刹那しか続かないものなんです。
 だから、瞑想に没入して日常の現実にもどれないということはありえない。
むしろ、多くの瞑想家がまちがっているのです。彼らは30分瞑想するとすれば、
30分の間、なにも考えない状態にいるはずだ、と考えている。
 
真実は、こうです。
正しい瞑想家は、30分坐ってる間に、なんどもくりかえし、
あのシーンとした静かな気持ちへ自分の心をもっていくだけで、
たえず、日常にひきもどされる力が働いているのです。
その後天風のCDの講演録になかに、その説明があることに気がつきました。
 
少し大きい文字天風はこう言っています。
「瞑想の気持ちになれるのは、ほんの2,3秒です。長年練習すると、
それが20秒、30秒になりますが・・・私は1,2分つづくくらいです」
 瞑想のあいだにふっといろいろな雑念がわいてくるものです。
それを恐れることなかれ。雑念がでたら、
ふっとまたあの深い静けさに、心をもどす練習をすればよい。
くりかえし、くりかえし。




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実践者の責務


実践者の責務  2017.4.2

天風の教えの、一大特徴は(メリット)は、実践の方法です。
この方法には、瞑想、自己暗示、呼吸法、体操など、たくさんあります。(12ある)
人生観については、天風はきわめて柔軟な考え方をもっていました。
すなわち、万人が天風と同じ人生観をもつことはできない、と考えたのです。

つまり、人生観というものは、一人ひとりちがうのです。
天風はもちろん自己の哲学をおおいに語りましたが、そのすべてを絶対視していないのです。
自己暗示につかう言葉でも、自分がつくった“誦句”以外の言葉でも、
ポジティブであれば“よし”としたのです。
天風誦句を絶対として、他を排除しなかったのは、
自己暗示というものは、あくまで一人ひとりの個人が自己をはげまし、鼓舞することを目的としているからです。

天風は、教える人々のなかにクリスチャンがいても仏教徒がいても、平気でした。
その信仰を捨てよとは強要しなかった。
ただ、自分の教える方法――たとえば瞑想(=坐禅)――については、厳密さを要求しました。
そして熱心に実践することを、勧めてやみませんでした。

そして、実践する人が、他人にもそれを教え伝えることを強く望みました。
「他人にも教えないようなエゴイストはだめだ。人をも導かないかぎり、その人は不完全な実践者だ」
と天風は言っております。

ヨーガや禅は個人主義的で、社会性がないと批判されることがありますが、
天風は人一倍、社会のありかた、国家のありかたを考え、行動する人でもありました。

あまり知られていないのですが、天風はかなり激越な政治活動に走った時期があり、
その結果、憲兵に逮捕され留置場にいれられたばかりか、もう少しで死刑になりかけたことがあります。
それは2・26事件のときで、京都に滞在していた天風は、憲兵隊や刑事にきびしい尋問をうけております。
天風の弟子のひとりだった西田税(みつぐ)は2・26事件の翌年には死刑になりました。
2・26の前夜、西田税は本郷にあった天風の家をたずねて、話し込んでいました。
そのことを軍事警察は問題視したのです。




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