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科学と哲学


科学と哲学 (1) 2017. 6. 26

現代の多くの人は、なにか自分の常識では肯定できない事実を聞くと、
「もっと科学的に説明してもらわないと・・・」
といいます。
しかし、はたして科学的な説明をすれば、その人はその事実を理解し納得するでしょうか。
これはおおいに疑問です。

科学的という言葉と、哲学的という言葉は、相対的な関係にあります。
軽率な人は、科学的という言葉で、一切の真理が証明される、とか、
科学は絶対的なものだ、と思っているようです。
なぜこのような“科学に対する信仰”が現代社会にあるのかといえば、
今まで驚異的で有益な科学の貢献が大量にあったからでしょう。

ところが、絶対的に正しいと信じられている科学は、人生の根本的な問題をつきつめて考えるとき、
きわめて確実性の低いものになります。
たとえば、すべての価値的な命題をふくむ問題について、科学はまったく無力です。

科学は、「世界や現象の一部を対象とするだけであり、経験的に論証のできないものは認識できない」
と『広辞苑』は定義しております。
また、有名な理学者の中谷宇吉郎博士は
「あらゆる問題が近未来、科学によって解決されるという錯覚をもつ人が多い」
と言っておられます。
科学的な真理を尊重した天風も、同じようなことをよく申されました。

だからといって、もちろん科学を排斥すべきではありません。
ただ、科学の限界を正当に知らないと、科学的な迷信におちいる、ということです。

また、したがって“人生は哲学的に考えるべし”と言えば、
それもまた、たいへん軽率です。

哲学を専門とする人は、しばしば科学の限界をならべたてて、科学を攻撃するし、
科学的立場で研究している人は、
“哲学は、やたらと難解な抽象的言語をならべたてる、言葉の遊戯にすぎない“
と批判します。
この偏狭な科学者や哲学者の縄張り意識に、私たちが人生問題を考えるとき、
しばしば混迷させられるのです。(つづく)





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現在感ということ



現在感ということ  2017.6.13

人生というものは、
「今我ここに生きてあり!」
という現在感のつながり以外にはありえません。
なぜなら、宇宙の実相においては、
過去も未来も、相対的な見方にすぎないからです。

人生の一切は現在の連続です。
過去は、すでに過ぎ去ったものに対する回想です。
未来は、これから起こるであろう事柄への期待です。
実在するものは「現在ただ今」しかありません。

ところが、現実の人生を生きていく上で、
過去も未来も忘れて生きていくわけにはいかない。
つまり仮我の世界に生きていくということは、
過去や未来の時間の約束の上に成り立つ、
社会生活を生きる、ということだからです。

だから、時々私たちは実我の世界に心を置いて、
現在感を確保しなければならないのです。
つまり総合的にいえば、人生は仮我と実我の往還です。

具体的にいうと、
瞑想によって実我の世界に心を時々入れてやり、
順動の仮我の世界にもどってくる、
という生き方こそ望ましいのです。

これを仏教では、「煩悩即菩提」というのです。
煩悩の世界には、過去もあり未来もあります。
煩悩とは過去への執着であり、ときに後悔に悩まされる世界です。
また、未来に対する執着であり、不安に苦しめられる世界です。

そういう煩悩の世界に生きながらも、
同時に時々菩提を求めるのが人間のすがたです。
菩提とは「悟り」のこと、つまり瞑想のことです。

正しい瞑想をしているとき、私たちは「悟り」の境地にいるのです。
悟りというと、そんなことは私たち凡俗には縁のないことだ、
と考えてはいけません。
悟りは、“川の向こう岸”にあるのではなく、すぐそこにあるのです。

正しい瞑想には、現在感のみがあります。
だから、瞑想は現在感を確保する方法ともいえます。





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縁ということ


縁というもの 2017. .6.2

縁というものは大切なものです。
縁というものは、不思議な力をもっています。
仏教では、
「袖すり合うも他生の縁」といいます。

しかし、多くの人は、
縁がなぜそのように人生にとって大切なものか
理解していないようです。
しかし、縁を軽視すると、
心ならずも悪い運命を招くことになります。
その結果、人生を不幸なものにしてしまう。

英語で、縁はKarma(カルマ)といいます。
これはサンスクリット語で、昔から日本では「業(ごう)」と訳されていますが、
むしろ「天意」と訳すほうがよい。

縁は、不可思議な人生の旅路の「道しるべ」となるべきものです。

ですから、つねに縁を大切にし、縁に従って生きることが幸福への道となるのです。
縁を無視して生きると、知らず知らずのうちに、
形容のできない苦悩の中に陥っている自分を発見することになります。
なぜなら、人間の心のなかにある欲望は、つねに完全に満たされることを求める傾向があるので、
実際には自分の思い通りに世の中は動かないので、
強い要求不満に苦しめられるからです。

自分にあたえられた境遇を、縁のしからしむるところと考えて、
縁に従って生きてゆくと、ほんとうに安心のできる境涯に生きられるのです。

縁の中でも、特に奥深く大切なものが、4つあります。
1. 親子の縁
2. 夫婦の縁
3. 主従の縁
4. 師弟の縁
です。

1. の親子の縁は、血統の相続という重大事を行うためです。
2. の夫婦の縁も、血統の相続という重大事を行うためです。
3. 主従の縁は、仕事上の苦も楽も共にし、相信じあって生きるために結ばれたものです。
4. 師弟の縁は、縁のなかでももっとも重要なもので、絶対的なものです。なぜなら、人生真理をともに分かち合い、末永く後の世代まで伝承する縁だからです。これは、魂を分かち世襲するという「分魂世襲」ともいわれます。

このような縁の消息については、正しい瞑想を実践して自己の霊性が発現しないと、
理解できないものかもしれません。
低次元の本能的な欲望にのみとらわれている人には、
納得のゆかいないものかもしれません。

私はかって、縁などというものは昔の古い迷信だ、くらいに考えていましたが、
瞑想を20年以上するようになってから、縁を大切に感じるようになってきました。
なぜなら、人間にはどうしても不可能な、天意的な限界が人生にはあると感じるからです。
その限界にあるのが、縁とよばれるものではないでしょうか。





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