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信州



信州の山荘より  2017.7.23

7月16日に、信州の茅野にある山荘にきました。
標高1300メートルにありますが、
今年は、例年より2~3℃暑いです。
(20℃~25℃くらい)

やっと昨日Wifiを接続しました。
屋根が電波を受信しにくくしているので、コンピュータは2階にあるのですが、
Wifiは1階の電源に接続すると、うまくいきました。

霧ヶ峰にさっそくドライブしました。
ニッコウキスゲが満開まじかでした。
バーズカ砲のような、でっかいカメラを三脚にすえている人がいて、話しかけたら、
受像の画面に映っているジョウビタキやホホアカの鳥影を見せてくれました。
とても美しいもので感動しました。

今日は軽井沢までドライブし、旧軽の「にし川」でそばをたべて
、「白糸の滝」を見物にいきました。
猛暑の都会をのがれ、涼をもとめてやってきた人たちで
賑わっていました。
ここは浅間山の中腹で、とても清涼でした。

天風塾は、この山荘でもやっています。
今年の夏は、東京や大阪から数人の塾生がきます。
それを楽しみにして、山小屋のふき掃除をしています。
私どもは、8月いっぱいここに逗留します。
よろしくお願いします。



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科学と哲学 (2)


科学と哲学(2)

人生の問題を考えるとき、哲学も科学も同等に尊重すべです。
天風は
「哲学と科学が協力してはじめて、どちらもその真価を発揮し、人生に役立つ」
と言っています。

このようなことが、正当に人々に理解されていないのは、
哲学と科学の存立条件を理解していないからではないでしょうか。

哲学と科学の存立条件の違いについて、天風は
「科学は外延的extensionalで、哲学は内包的connotative」
と言われたことがあります。

これをもっと平明に、わかりやすく言い換えれば、
“科学は五感の感覚で認知しうる範囲内で行われるのに対し、
哲学はしばしば五感の認識を超えて思索をすすめ、
人間の行動の意義や価値を内省する“
ということになるでしょうか。

その結果、哲学は、物事の本質を穿つこともあるかわりに、
主観的な断定をおこなう傾向もあり、不確実性をふくむ可能性もあり、
個人によってさまざまな論がありうるものです。
したがって、万人がその価値を認めるような哲学は、現実にはなかなかありえない。
その結果、人々がいっそう客観的で確実性のたかい科学的知識のみを評価する、
という傾向がでてくるのです。

私たちが自分の人生観を確立するためには、哲学の知恵と科学の知恵の両方を必要とします。
なぜなら・・・
人生を科学智のみで考えると、
“人間とは食べて寝て働いて、一定の時間がすぎると、この世から姿を消す”
というような無味乾燥なものになりかねない。
しかし、人生を哲学智で考えると、もっと情味のある、面白味のあるものになるかもしれないが、
しばしば独善的、ドグマチックなものになる可能性もあります。
ですから、科学と哲学は、ひとりの人格のなかで相補的にならねばなりません。

哲学と科学の違いを、次のように言うこともできます。
「哲学は、目に見えない実在の世界について考え、物事の価値を論ずる」
「科学は、目に見える現象の世界について観察し、物事の原因と結果の把握する」
このように定義すると、あたかも哲学を科学が対立しているかのように感じられるかもしれませんが、
そうではなく、実は“一枚の板の表と裏”のちがいにすぎないのです。
だから、哲学と科学を両方とも活用して生きるのが賢明な生き方となります。

上の哲学と科学の定義は、双方の真価をポジティブに評価したものですから、
哲学と科学をたがいに相補うものにして生かすことができる、
という希望を与えてくれるものではないでしょうか。






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