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抜刀術のことなど


天風の抜刀術のことなど  2018.1.23

天風は抜刀術にすぐれていました。
(抜刀術を“居合い抜き”と呼ぶ人もいます。)
抜刀術を天風は、まだ三郎と呼ばれていた小1の頃から学んだそうです。

小1の頃と言えば、三郎は東京都北区王子に住んでいましたから、
上野の御徒町(おかちまち)に住んでいた祖父の家へよく遊びに行ったものと、
思われます。
王子から御徒町まで歩いてもいける距離だったでしょう。

三郎の祖父というは、柳川藩(福岡県南部)の大名だった立花鑑寛(あきとも)です。
鑑寛は、明治維新のとき廃藩置県の政策によって柳川ではなく、
東京に住まうことを政府に命じられて、江戸時代ずっとあった御徒町の上屋敷に住んで、
政府からかなり潤沢な俸禄をもらっていたようです。

天風の抜刀術は「随変流」(ずいへんりゅう)という、柳川藩に昔から伝わるものですから、
御徒町の上屋敷で鑑寛に仕えていた家来から三郎は抜刀術を習ったのではないか、
と私は想像しています。

それは明治15年ころのことですから、
王子から父祐興(すけおき)に三郎は連れられて、
人力車にでも乗って行ったのでしょう。

天風の祖父は鑑徳(あきのり)ではなく鑑寛です。
天風は講演でよく
「私の祖父は立花鑑徳です」
と言ったものですが、天風は「あきのり」といわず音読みで「かんとく」と発音したものです。
これは天風の記憶ちがいです。
ただしくは鑑寛で、これを音読みすれば「かんかん」となり、
まるでパンダの名前みたいです。

天風は立花家の嫡流ではなかったので、成人後の天風は立花家との交流は遠慮して、
系図も見なかったのか、祖父の名前を勘違いしたようです。

立花鑑寛の孫に「鑑徳」がおります。
鑑徳は天風とは“いとこ”に当たります。
鑑徳の写真が立花家にあり、私はそのコピーをもっています。
鑑徳は天風と顔がよく似ています。





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天風の子供の頃


天風の子供のころ 2018.1.14

天風は幼名を「三午」といいました。
午(うま)の年の、午の日の、午の時刻に生まれたからです。
天風は
「おれは馬の年、馬の日、馬の時刻にうまれたんだ。それで三午とよばれたんだが、
それで生まれつき<はねっかかえり>なんだろうな」
と言われたことがあります。

天風は生まれたとき、前歯が2本すでにはえていた、という人がありますが、
本当でしょうか。
たぶん普通の子供より早く歯がはえはじめたのだろう、と私は想像します。

天風の両親が、この子を占いに観てもらったことがあります。
その易者は、なんと思ったのか、
「この子は、油断すると、石川五右衛門のような大悪人になるかもしれん」
と言ったそうです。両親はたいへん心配されたでしょう。

天風の本名は三郎ですが・・・三郎は小学生のとき、
照憲皇太后(明治天皇の妻)から「神童賞」というものを貰ったそうです。
これは本当でしょうか。
三郎は6歳のころから柔道と剣道をまなびはじめ、どちらも並はずれて強かったので、
そういう賞をもらったのかもしれません。
三郎は勉強なんかしない子供だったようです。
天風は
「おれは子供の頃、頭は悪くなかったんだが、勉強などぜんぜんしない悪ガキでね、
織田信長の子供の頃の話をきくと、おれはそれに似ていると思うよ」
と、よく言ったものです。




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