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夏の京都より

夏の京都より 2018824

 

今年の京都の夏はとても暑かったです。

一日の最高温度が38度以上の日が13日連続しました。

ほとんど人にも会わず、日中は昼寝をして、

毎日夕方寺町を散歩して運動不足にならないようにしていました。

もとんど無為の日々といえそうですが・・・

実はたいへんな収穫がありました。

それは家にいて“裏打ち”の技法を修得したことです。

“裏打ち”というは、表装の作業の主要な部分で、

墨書を作品化するために、作品の裏側に厚い和紙を糊づけすることです。

これはプロにしかできない作業だと思っていましたが、

調べてやってみると、意外に簡単でした。

ただ裏打ちした作品を正確に色紙に貼り付けることは、

今の私には不可能としか思えません。

 

“裏打ち”だけでも修得できたのは、私の今夏の最大の喜びでした。

 

天風誦句を毎日のように墨書しています。

写経のようなものですが、

最近は少し作品的なものになるよう工夫しています。

 

さて、前に私の短歌をいずれ披露しましょう、

とこのブログに書きました。

ここに、2つばかり私の短歌を書いておきます。

 

詞書=私を産んだ母は私が幼い時亡くなり、

私には記憶がありませんが、

母は京都の生まれです。

それで京都の北山などを見るとき、

母もこの変わらぬ山の稜線を見たのだな、

という思いがあります。

 

いにしえの 母もみたりし 故郷の

変わらぬ緑 山の稜線

 

詞書=春のまだ水田の稲が伸びない頃、5月だったか、

明日香へドライブしました。

万葉集を読んだりして急に大和三山をみたくなったのです。

 

わが魂の ふるさと麗し 指さして

人の教え給いし 大和三山

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心の鍛錬について

天風メソッド 14

 

心の鍛錬について 2018. 810

 

「心の鍛錬」という天風誦句があります。

なにしろ天風先生は、まだ帯刀の気風ののこっている明治時代の初期(明治8年)に生まれ、

しかも日清日露の両戦役では、日本刀をもって敵と命のやりとりをした人であり、

その後も抜刀術をつづけられ、

90歳ころまで観衆の前で抜刀の妙技を披露されるほどの人でしたから、

天風先生にとっては、日本刀はきわめて身近な存在でした。 


私がかって天風会の機関誌の編集責任者だったころ、

機会に恵まれて、天風先生が所持しておられた日本刀を20口(ふり)ほど見せてもらい、抜刀して刀身を触ってみたことがあります。

 

天風誦句「心の鍛錬」は、集中力を刀剣のイメージで比喩して

書かれているので、現代のわれわれにはあまりピンとこない。

それに現代にはそぐわない時代錯誤的なものもあります。

 

そこで、<刀剣>のイメージを捨てて

<集中力>という言葉をつかって、私は書き直しました。

原文の好きな人はそれでいいでしょう。

私自身は、原文のまま暗唱して毎日となえております。

 私のこの誦句の書き直しで、その原文の意味するところは十分に表現できていると自負しています。

心の鍛錬 (誦句集(二)より)

 

神は私たち人間に

すぐれた集中力を与えている。

だから、眼前の一事に集中する習慣を身につけると、

おどろくべき集中力が養成される。

 

覚者とか哲人とよばれる人は、

ただこの消息にめざめて精進した人であり、

凡人というは、自分の雑念にふりまわされて、

なにをしても成功せず、苦しみ悩む者をいう。

 

だから、かりにも修道の人は、

ただ何事にも一念集中して心を研き

すぐれた集中力を発揮すべし。

 

瞑想について

天風メソッド 13

 

瞑想について

 

いかなる瞑想であれ、もし心が深い静けさを味わうことができた場合には、

ある程度の瞑想ができていると考えられます。

 

T.M.瞑想

呼吸瞑想

禅宗の只管打座

 

上記の3つの瞑想法では、心がほんとうに静かになれば、

瞑想の目的をある程度は達しうるのです。

しかし、稀有な宗教的な才能のある人にしか、

瞑想の境地に到達できないものです。

普通の人にはとてもムリです。

なぜなら、途方もなく長い時間を必要とするか、

あるいは瞑想の境地を正しく把握できないのからです。

 

ところが、天風式瞑想法では、忙しい現代人にでも、

またいかなる下根の人と言えども、

深い静寂感が容易に会得できます。

しかも、短時間の実践で、正しい瞑想の状態を把握できるのです。

 

なぜなら、天風式瞑想法は瞑想に入る前に、

きわめて効果的で容易な集中の方法を行うからです。

また、優れた集中が得られので、

そのあと“シーンとした深い静寂感”を会得できるのです。

いかなる集中行もしないで、深い静寂感を得るというのは、

普通の人にとっては至難の業です。

 

この深い静寂感を禅では「空」と呼ぶのですが、

「無」と呼ぶ僧もいます。

空と無はほとんど同じ意味ですが・・・

「空」は絶対的なひびきをもっており、「無」は相対的です。

なぜなら、「無」は「有」の相対語だからです。

空には相対する語がありません。

「空」は絶対的なもので、

「有」とか「無」の区別を超越した意味合いをもっています。

それで「空」という言葉がよく使われるのです。