新村先生のこと
新村先生の思い出 2019.6.18
新村出先生のご自宅を訪ねたのは、大学2年生の春だったか。新村先生とはいうまでもなく『広辞苑』という国民的な辞書の編者です。昭和34年ごろです。
その3年前に他界した、私の母にあてた手紙を私はもっていたので、それをもって訪問した。その中には「昔懐かしい三枝子さん」という語句もあって、達者な墨筆で書かれていた。
春の麗らかな、よく晴れた日で、すぐに2階の先生の和室の書斎に通された。前裁の緑の梢が目前にあざやかだった。
新村先生は、小柄で身動きが軽捷であり、肌の白い貴公子のような人だった。重厚な圧迫感などみじんもなかったので、私はすぐにうちとけることができた。
先生は亡くなった私の母について、あれこれ尋ねられた。
「あなたのお母様はこどものころから、数学の天才でね」
などと言われた。
先生と母は昔、京都鞍馬口のすぐ近くに住んでいて、子供の頃つきあいがあったのだ。母は出さんを兄のように親しんでつきあっていたようだ。
新村先生の家はむかし桂小五郎が、維新後のことだが、木戸孝允と名乗って国家の要職にあったころ、京都にきたときに泊まる別邸であった。
私が先生と話していると、三省堂の方が二人たずねてこられた。『広辞苑』の改訂版の相談であった。先生は私を編集者のひとに
「これは私の若い友人です」と紹介され、帰ろうとする私をひきとめて、「いなさいよ。勉強になるから」と言われた。
母は私が新村先生の広博な学識に触発されて勉学にはげむことを期待していたことは、私に先生を語る時の口吻によみとれたが、私は先生のお宅をその後おとずれることはなかった。私は辞書学のような地味なものでなく、もっと奔放で自在な未来を夢みていた。
高藤武馬(有名な国文学者)が新村出と親交があったことは、のちに知った。
武馬の息子、武允(英文学者)とは、大学の3年のころから私は親交があったのに、なぜいっしょに新村先生を訪ねなかったのか、いまでは不思議だ。
新村先生は晩年、高峰秀子のファンであることを公言してはばからず、家中に、その写真をはりめぐらしていたことは、高峰の随筆に書かれている。先生はこの女優を自宅に招いたのである。高峰はすぐれたエッセイストでもあった。
その頃の老境の先生を訪ねて『二十四の瞳』の話でもしてみたかったものだ。
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