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七十の手習い


習字のこと  2015.11,14

このごろヒマをみて、書道三昧をあじわっている。
20歳代のはじめころ、篠田聴泉さん(日展審査員)も若かったころ(同い年)、親しくしていただいて、書を習い、師範の位に達したが、その後、英語教師の毎日で、管城を忘れ、50年以上も経ってしまった。

まさか墨筆をもつこともあるまいと、思って・・・
ある大学の学長さんからもらった、中国のおみやけ、高価な端渓の硯があったのを、若い人にあげてしまった。
ところが、東京の美術家、塩原さんが過日来塾されて、天風哲学をいっしょに勉強したとき、あとで「墨の美」を熱っぽく語られた。
それに触発されてしまって、墨や筆はあったので、町を歩いていた時、習字用の紙(伊予の手漉き和紙)を買ってしまった。あまりに紙が美しいので!

『文士の書跡』という本が手元にあったので、それで手習いした。
なんとも言えぬ快感があった。
心が落着き、書に集中する充実感をあじわった。
書というものは、集中せずにおられない。
これは「官能の啓発」だと思った。
まずお手本を「見る」からである。それに墨、筆、紙に対して「触覚」をはたらかせる。

『文士の書跡』では、三好達治、北原白秋が、のびのびした筆勢で、よくマネをした。
しかし、実は、悪筆の代表のようにいわれる萩原朔太郎の、奔放で、下手くそまるだしを恐れぬ、大胆不敵な筆跡が、私にはなによりうれしい。
しかし、マネはできない。
その逆の、伊藤静雄の、子供のような一所懸命なキチンとした字も好き。
だが、これもマネができない。
たぶん、この二人の詩人は、個性が強すぎるのであろう。

そのうち会津八一の平仮名と出会って、心ひかれた。
上手に書こうという観念をいっさい捨てた、気楽な平仮名である。これは、私にはマネができると思った。会津八一も個性は強いが、常識もゆたかだ。

漢字は、顔真卿を師と仰ぐ。
王義之を学んだことはあるが、上品で高雅で、その完璧主義は私には面白くない。
顔真卿の行書は、のびのびしていて、気楽で、しかもとっても美しい。




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