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唯我独尊について


唯我独尊について     2015.12.16

「唯我独尊」ということばがある。
これは「ただ我独り尊し」と読める。
したがって「ひとりよがり」の意として、ふつう使われる。
しかし、私はこれに疑問をもっている。

お釈迦さまは、生まれたとき、一手で天を指さし、もう一方の手で地を指さし、七歩あるいて、四方を見渡し、「天上天下、唯我独尊」と言った、と仏教では伝えている。

お釈迦さまが、生まれたばかりとはいえ、「自分だけが尊い」などと、そんな不遜なことを、ほんとうに言ったのだろうか。
あるいは、仏教者もそのように考えているのだろうか。

「唯我」という熟語がある。
その意味は「無我」(=自由自在の境地)であると、仏教の辞典にはでている。
すると、釈迦誕生の時の言葉「唯我独尊」の意味は「無我独尊」すなわち、「無我ほど尊いものはない」という意味に解釈できる。

もう一つの説をのべる。
仏教では、「我」とは「大我」の意味にもつかう、という。
すると、釈迦誕生のときの言葉「唯我独尊」は、「ただ大我のみが尊い」と解釈できる。
「大我」とは「個人的主観や執着からはなれた自由自在の悟りの境地」と、仏教では説明している。

どうも漢字はやっかいである。
その原因のひとつは、仏教が本来儒教的な漢語をつかって、インド哲学を翻訳したところにあるようだ。
中国では、儒教と仏教は敵対していた。
この二つの教えが使用する漢字の用法が微妙に、時に真逆に、ちがってくるのだ。
それが漢字の世界の中に混在している。
仏教は、「否定を尽くして肯定に至る」という、インド哲学の影響を受けている。
それが漢字の字義を複雑にしている。

「我有って、我無し」などと、仏教(とくに禅宗)はいう。
これは坐禅の境地を表現しているのだ。
このときの「我」とは何ぞや? ということになる。
「我有って」の「我」は「真我」ということ。
「我無し」の「我」とは、「我執」のこと。(我(が)をはる、というときの「我」でもある。)
だから、「我有って、我無し」の意味は、
「本当の我があって、我執の我はないぞ」ということ。

このように、漢字はややこしい。
だからこそ、漢字の世界は面白い。
和語だけでは表現できないものが、漢字にはある。





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