天風先生の霊感
新しい年、2014年が明けました。
あけまして、おめでとうございます。
今日は天風先生の霊感についてお話します。
ネパールのゴークで坐禅を組んで、天風は悟りをひらき、それ以来
霊感のでる人になりました。
天風は悟りを開いてからも、安定打坐法(=天風式瞑想)を不断に実行されていました。しかし、私は天風が瞑想している姿は、一度見ただけです。
めったに人前で瞑想されたことはありません。
つまり、天風は、朝起きた時とか、夜寝る前の短い時間に、瞑想をしておられたのです。それで十分なのですね。
さて、天風に大きな霊感がでたのは、ひとびとに教えを説きはじめてから、2、3年目のことでした。それは、当時の皇太子(のちの昭和天皇)がヨーロッパ諸国を親善訪問されることが、決まったときです。
皇太子は、すでに次の天皇になることがきまっていましたから、ヨーロッパを見聞して世界に知見を広めることが、求められたのです。ところが、皇太子の周辺では、外遊に賛否両論があって、激しく対立しました。
反対の中心にあったのは、頭山満とそのグループでした。
西園寺公望が、皇太子の随行団の団長にきまり、そのことで反対派にねらわれ、銃弾をあびた事件が起こりました。それは頭山満の玄洋社のなかの過激で凶暴な連中のやったことだ、という噂がもっぱらでした。
皇太子の欧州訪問に反対する人々は、こう主張したのです。
*当時のヨーロッパは政治的に不安定で、日本の皇太子を暗殺しようとする計画がある。
*今上陛下(大正天皇)がご病気であるのに、長男が長い旅になどでるべきでない。
反対派の頭山は嘆願書をつくり、多くの人に署名をつのりました。とうぜん天風も署名をもとめられました。ところが、天風は霊感によって「皇太子は無事に旅をおえて、帰国される」と予知して、嘆願書に署名することを拒否しました。それが頭山を怒らせないわけがありません。天風は勘当になりました。頭山満は天風の養父のような人だったからです。
これは大正時代の末のことです。皇太子は船にのって横浜を出港されました。その外遊はぜんぶで6カ月におよびました。
のちに皇太子が昭和天皇となられてから、それもご高齢になられてから、記者会見で、自分の一生をふりかえられて、
「あのヨーロッパの旅が、私にとっていちばん楽しい思い出です。あんなに自由に行動できたのは、私の一生で、あの6カ月だけでした」
と言われました。私はそれをテレビで聞きました。
天風は自分の霊感があたって、皇太子が無事帰国された時、どんなに喜ばれたことでしょう!
この話は、天風の古い弟子はみな聞いております。
のちに、頭山満は天風を勘当したことをわび、ふたりは和解したそうです。
「霊感というのは、一瞬のもので、そのあと自分でも不思議だなあと思うことがありますよ」
と、天風はよく話されました。
皇太子外遊の6カ月のあいだ、天風はときに「自分はまちがっていなかったか?」と自問し、すこしは不安を感じられのです。
その霊感が当たったことで、天風は面目をほどこし、それが天風に信念と自信とをあたえただろうと、思います。
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