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心に喜びを



命の喜びとは?

いったい、なにが“生きる命の喜び”でしょうか。
この主題が一見むつかしいのは、人によって、人生観がちがうし、喜びの主題が種々あって、複雑だからでしょう。
しかし、すべての人間は、生物であって、個々の人間のもつ固有の“いのち”の真相を考えるならば、
答えはきわめて単純かつ平明だと思われます。

「いかなる場合にも、心に喜びを感ぜしめて生きる」ということは、
どのようにして現実化されるのでしょうか。
生物という存在は、なにをいちばん喜びとして心に感じるのか、
ということを考えてみます。
それは、生きることに対する目的が、完全に達せられたとき以外にはありません。
その卑近な例は、健康な胃に食べ物がじゅうぶんに満たされたとき、とか、
愛を感じている男女が相互の性欲を満たしたときに感じるものを、
正当に評価すると鮮明になります。

すべての生物は、その本能的な欲求が満たされたとき、
生きることに対する“よろこび”を、心に感じるのです。
人間だけが、心をもっているのではありません。
植物は植物心をもっております。
すべての生物は、心をもっているから存在を確保しているのです。

だから、「心に喜びを感じさせて生きる」というときに、
“いのち”のもつ本能を無視して、考えることは不可能です。
人生問題といっても、人が生物であって、本能とそこから出てくる欲求をもつ以上、
それをスターティング・ラインとして出発する以外に正念をえることはできません。

しかし、本能の満足を“本位として”人生を考える、という意味ではありません。

人間が、他の生物をはるかに凌駕する、優秀な理性、
ゆたかな感情、神の叡智を受け入れる霊性、
をもっていることを考えれば、本能の満足だけに、人生の喜びを限定してはなりません。
ただ「いかなるときも心に喜びを」という信条の現実的な方法を模索するとき、
人間のもつ生命の本能の欲求を無視することはできません。
そこで“健康“ということが、哲学的な問題としてでてくるのです。
健康でなければ、本能的な欲求を真実の意味で満足させられないからです。

ところが、古今東西の思想家、宗教家、哲学者は
“本能の欲求”についての考察が欠落しております。
健康を現実化するという視点も欠落しております。
宗教家などは、人間のもつ欲望をすべて捨てなさい、と言ってきました。
多くの哲学者ですら、欲望を否定するばかりか、健康についての思索がありません。

それは彼らが、既成の倫理や道徳にとらわれて、
“本能の欲求”とか健康に関する主題の考察がないからです。
なかには欲望そのものを、向下的なものであるかのごとく、蔑視しております。

本能の満足を、ただ否定するのではなく、
本能の欲求を正しくコントロールして、正当な方向づけしてやる、
ということが人生の先決的な問題ではないでしょうか。
天風という人は、こういう問題を真剣に考えた人です。





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