科学的真理というもの
科学的真理というもの 2017.1.13
科学的な真理と、哲学的な真理とがあります。
そのいずれが正しく、片方はまちがっている、ということはないのです。
どちらも、真実であれば真理であり、どちらも正しく心に受け入れるべきものです。
多くの人は、二者択一にこだわるから、迷い苦しむのではないでしょうか。
「宇宙のはじまり」について先日テレビで、村上斉(東大教授)が、面白いレクチャをおこない、
私はある種の感動をおぼえた。
それは、真実なるものを探求する人の放つ光彩のようなものに、感動したのだと思います。
理論物理学や天文学は、宇宙のはじまりと終末について、いろいろ研究をすすめております。
私どもは、高校生のころ、物理学の授業で、
「この宇宙にはじまりなどない」というアインシュタインの言葉を教わりました。
しかし、最近の天体観測や理論物理学の推論によって、宇宙にははじまりがあるという。138億年前とか。
宇宙は最初はたった一つの極微粒子で、ある時期にビッグバンがあって、
宇宙は膨脹し、恒星がうまれ、銀河系が形成され、衛星がいくつも誕生し、
地球も生まれた、といわれます。
ビッグバンをひき起こした物質として、ダークマターという、未知の仮設上の物質があり、
ニュートリノがその質量が観測されたわずかな一例だそうです。
ニュートンの万有引力の法則ではもはや説明できない、ダークエネルギーというものが想定され・・・
宇宙はしだいに膨脹を弱めると考えられていたが、
そうではなく加速度的に膨脹している部分もあるという。
そして、宇宙の終末は、(1)暗闇にとざされた氷の世界となるか、
もしくは (2)ダークエネルギーによって内側から破裂し崩壊する、
という二つの説があるそうです。
宇宙に関する物理学には、観測不能で判明されないもののほうが多い。
これらの説は定説とはいえない。
しかし、現段階では、これらは物理的、科学的真理とよばれる。
そもそも科学というものは、五感によって感覚し認知しうる範囲内に限定された、
外延量的なものです。
ですから、人生と宇宙について考えるとき、
五感をこえた分野をも思索の対象とする哲学的探求が必要となってきます。
ただ、哲学は主観によって断定する内包量的なものですから、
ただ一つの客観的事実というものはありません。
一人ひとりの個人が真底から納得できるものを求めていくしかないのです。
ただそこに普遍的なものが望まれます。
私が信ずる哲学的真理からいえば、
宇宙には“始まりも終わりも”ない。
万物は形のある限り消滅しますが、この宇宙は、大いなる生命体で、
エネルギーに満ちあふれています。
この世界には、「大自然」とう大きな命が、ただ一つあるのみです。
しかも、その命は永遠に不滅です。
しかし、私の信じる哲学的真理は、先の物理学的真理と、
すこしも矛盾も抵触もしないのです。
これを書きながら思い出すのは、湯川秀樹が中間子の理論を発見したころ、
それと並行して空海の宇宙生命の哲学を読んで、おおいに心を励まされた、
という話です。
(私は大学時代、湯川先生の講義を聴講したことがあり、そのときこの話をききました)
わが師天風も、先端的な科学の探求につよい関心をもち、
その哲学的思索と並行して、勉強されていました。
問題なのは、哲学的な命題を科学で解明しようしたり、
科学的な問題を哲学で解こうとすることです。
最近そういう傾向が多くみられます。
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