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安定打坐考抄・解説(2) 2015.7.11


安定打坐考抄・解説(2)

前回につづいて、難解といわれる、中村天風著『安定打坐考抄』の解説を行います。

p. 5~9
禅宗の坐禅の目的と、私の安定打坐法の目的は同じものです。つまり、霊的境地の開拓、一言でいえば、悟りです。また、禅にはヨーガのダーラナ密法(=集中の方法)を取り入れようとした形跡もありますので、禅宗の坐禅と安定打坐法は、似ているところが多いのです。
 しかし、禅宗の坐禅と安定打坐法には、大きな違いがあります。ひとつは、前者の方法は、無念無想の会得が、たいへん困難であるということです。ましてや、瞑想の極地である「三昧(ざんまい)」に、禅によって達することは、常人にはムリです。
 私の提案する安定打坐法では、無念無想に達することは容易で、常人でも何年か続ければ、三昧を体験できるようになります。
(付記―三昧とは、サンスクリット語のsamadhiを音写した漢語で、超能力を開発できるような、瞑想のもっとも深い霊的境地を意味します)

 そこで、皆さんは、しばしば世間で話題となる、禅とはなにか、を知っておくことが必要です。ところが、たいていの人は禅について、いろいろな誤解をもっているようです。
 禅はたいへん難しいもので、その妙境に入るには長い年月にわたって、難行苦行をしなければならない、と考えている人が多いのです。したがって、少し禅をかじって諦める人が多い。
 また、昔から禅を説く人たちが、禅をなにか非常に幽玄なものであるように語る。そして抽象的な漠然とした議論でおわることが多いのです。その結果、禅を妙な、不思議な、へんてこなものと、多くの人が考えております。
 特に、禅の専門家は、やたらと仏教的な述語をならべたてるので、やさしいことも分からなくなってしまう。
 まちがった禅を、正しい禅のごとくに錯覚している人が多い。また、禅の一部だけをみて、それが禅の全体のように思い込んでいる人も多い。
 禅をやった人が、脱線的な行為や突飛な言動をすると、それが禅の妙諦と勘違いする人もいる。一休さんのように、滑稽なこと、奇抜なことをするのが禅だと信じている人もいる。
 一休禅師の滑稽は、独特な個性からうまれた、禅的表現の一種にすぎません。

 禅の「公案」という謎かけのような問答に、はまり込んでいる人もいます。これは「きつね禅」とか「釣られ禅」といわれるウソの禅です。「公案」と称して、非常識な問答をしてみせる禅僧がいます。そんな悟ってもいない人を、悟っている人と思い込んでいる。
 やたらと結跏趺坐をして苦しむことが、禅の修行だと勘違いしている人も見受けられます。
 ほんとうの禅とは、そのような非常識な、へんてこなものではありません。
 公案と呼ばれるものは、いわば無用の遊びにすぎません。

(付記―禅の臨済宗では、さかんに公案とよばれる対話を行う。一方、曹洞宗(そうとうしゅう)では、もっぱら坐禅を行う。福井の永平寺や横浜の総持寺は曹洞宗です。天風は総持寺の管長、石川素堂と縁があり、石川素堂は天風式の効果的な瞑想の方法を学んだ。総持寺には、今もその伝統がうけつがれているようだ。)






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