安定打坐考抄・解説 (3 ) 2015.7.17
安定打坐考抄・解説(3)
p.10~12
禅とは一心(いっしん)ということである。
禅とは、心そのものと、心の現れをいう。
(付記―一心とは、純一無雑な心ということ、つまり悟りの心、霊性心である。禅とは、一心になる瞑想である。禅は禅那の省略であり、禅那は梵語のディヤーナ(=瞑想)の音写である。したがって、禅は瞑想を意味しており、瞑想は一心に入る方法である。ここでいう心とは、霊性心のことである)
お釈迦さまがインドの霊鷲山(りょうじゅせん)の山上で坐禅をして悟られたとき、その気持ちを「涅槃妙心(ねはんみょうしん」」と表現された。
(付記―涅槃も妙心も、仏の心(=悟りの心)を意味する。表現できないほど不思議な心ということ。これを言い換えると一心である)
お釈迦さまの坐禅による悟りの心を、28代目の達磨大師が中国に伝えた。だから、達磨は中国禅宗の始祖といわれる。その中国の禅が日本に伝わったのであるが、その間、釈迦の坐禅の行法や、悟りについての説明は、その伝承者により、いろいろ変容した。
しかし、禅が一心にいたる坐禅(=瞑想)であるということには、少しも変わりはない。
禅というのは、悟りの心、霊性心のあらわれであるから、
それが勇気となってあらわれたり、平静心となってあらわれたり、
滑稽、諧謔、頓智(ユーモア)となる。また巧妙となり、詩、歌、文章、言論ともなる。さらには、政治、外交、経済、教育、宗教、哲学、芸術、商業、工業、そのほか、あらゆる人生の事象となって、あらわれるものである。
心がなければ、いろいろな人生現象は生じない。
人間のなすこと、思うこと、すべて心のあらわれである。
心がなければ、なにもなくなる。
心をなければ、人生の意味も意義もなくなる。
心がなければ、宇宙の万物さえも、無になってしまう。
このように考えれば、禅というものは特別なものでもないし、不思議なものでもない。
禅は深遠、幽玄、微妙なものである、と同時に、たいへん平凡なものである、といえる。
歩くも禅、眠るも禅、飲むも禅、食うも禅、本を読むも禅、しゃべるも禅。いな、人間の心のあらわれは、すべて禅である。
しかし、ここでいう心とは、多くに人がいう心ではない。
ここでいう心とは、悪い心、邪な心、我欲の心ではなく、
先天の心、本性の心、真の心である。
ほんとうの心は、正を正とし、邪を邪とし、動を動とし、静を静とし、真を真とし、偽を偽とし、善を善とし、悪を悪とし、角を角とし、円を円とする、公平無私の、本心である。それが禅(=瞑想)によって得られる心である。
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