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安定打坐考抄・解説(4) 2015.8.2


安定打坐考抄・解説(4)

P. 12~18
 禅の修行には、理入と行入の二種類がある。
理入というのは、理論的な説明をよく理解して、坐禅にとりくむ、というやり方である。
行入というのは、ひたすら行ずることによって、坐禅の妙境を会得するという、やり方である。
結論からいうと、いずれも大事なものである。
片方に重点を置きすぎると、禅が不完全なものになる。
とくに理知階級の人は、理入が大切である。なぜなら、すでに理知的な先入観があって、それで禅を正しく理解できないで、禅の価値を見失うことがあるからである。
 
理入と行入というのは、禅の種類で、どちらかを選ぶ必要があると思い込んでいる指導者が多い。
達磨大師は、修行の便宜上、理入と行入を区別しながら禅を説いたのである。
 達磨大師は、
「一切衆生は、本来如来の知恵徳相を具有する」と
いわれた。その意味は、
「すべての人は、悟りを開いた人と同じ知恵も、能力もあわせもっている」
ということである。
一言でいうと、
「人は各自の本分に安着せよ」
ということ。その意味は
「すべての人は生まれながらに長所、個性をもっているから、他人にあまり頼ろうとするな」ということ。

理入はしたがって先天的な能力を指すのに対し、
行入は、後天的な努力をいうのである。
だから、どちらも尊重すべしである。

禅宗は、主として行入を強調する傾向がある。
(付記―不立文字ということばに、それが表れている)
理入と行入は、ちょうど1枚の板の裏と表であって、両方をあわせて1枚の板を形成しているように、どちらも大切なものである。
(だから、私は瞑想の実行とともに、理論的な理解を諸君にもとめているのである)

達磨大師から5代のちの大海禅師の門人に、
慧能と神秀という2人の秀才がいた。
慧能は、
「本来無一物、何れの処にか塵埃を引かん」
といった。
この一文の意味は、
「人間は本来、清浄無垢な心をもっている。だから、人間は本来の心にもどりさえすれば、悟れるはずだ」
ということ。

神秀は、
「時に払拭して塵埃を引かしむる勿れ」
といった。
この文章に意味は、
「人間はとかく雑念や妄念に心が汚れやすい。だから、坐禅をして、それらの汚れをとりのぞくのがいいのだ」

慧能は、人は本来の心はきれいなものだ、と主張するに対して、神秀は、人は本来心が汚れやすい、と主張しているのである。
昔から、どちらが正しいのか、という激しい議論が果てしなく続いてきた。
どちらかが正しいのではない。
どちらも正しいのである。
つまり「人は生まれながら、きれいな心をもっているが、その心はまた油断すると汚れやすくなる傾向がある」
というのが本当なのである。





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