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安定打坐考抄。解説(5)2015.8.14


安定打坐考抄・解説(5)

p18~21
 (付記―前回は慧能と神秀のふたりの禅僧の考え方を紹介したが、これらと、理入、行入の関係については、私自身納得できないので、その部分の説明はひかえる。しかし、天風は禅の一部にかたよった考え方を批判していることは明白で、これを銘記しておく必要はある。これは天風が禅の本質をみごとに把握していた証拠である、と私は感じている。)

 禅というものは、まず瞑想における「空」の境地を自覚(会得)しなければならない。そして次に、自分の生活が真、善、美に満たされるように努力しなければならない。それが人間らしい生き方なのである。
 生活が真、善、美で満たされるように、禅は独自の生死観、自我観、道徳観、修養観、処世観をもっている。それらが、私の天風哲学と、共通しているところが少なくない。なぜなら、私の哲学も禅も、ともに、インドのヨーガ哲学から出発しているからである。

 禅には、たくさん流派があるが、それらの根本的な原理は同じである。
 その根本的な原理とは、人の生命は「霊」なるもので保持されている、ということである。したがって、すべての人は尊い霊性をもっている。

 そして、自己の霊性とはなにか? ということを知ることが肝要である。なぜなら、人は、何事にも迷いやすい性向をもっているからである。この迷いやすい性向が、真の自己を不明にしてしまう。真の自己が不明になると、信念が弱くなってしまう。信念こそ、人生にとってもっとも大切なものである。
 信念が弱いと、人生は悲惨なものになる。信念を強くするために、自己の霊性を自覚し、何事にも迷わない人間にならねばならない。

 私の創案した心身統一法は、この「霊性の自覚」を実現することを目標としているのである。とくに安定打坐密法(=天風式の瞑想法)は、「無我無念」の心境を会得するためのもので、無我無念になってはじめて、人は「霊性の自覚」ができるのである。





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