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安定打坐考抄・解説(9) 2015.9.18


安定打坐考抄・解説(9)

p30~34
 心に付着した(こびりついた)消極的な観念という垢よごれが、安定打坐密法によって、なくなれば、そこには燦然とかがやく根本心(=本心良心)が出てくる。
 この根本心というものは、じつに強い積極的なものだから、この密法をおこなえば、精神力が強くなるのは当然である。

 実際、軽い病人などは、この密法で軽快になる。その理由を科学的に言えば、消極的観念の排除の結果、神経系統の機能が積極化し、生命に本来与えられている自然治癒能力(natural healing power)が旺盛になるからである。

 次に、安定打坐密法に関する真理を、演繹的に(=1つの法則をいろいろな事柄に当てはめて)記述する。そして、安定打坐密法に対する正しい理解の参考とされたい。

 古い中国の哲学に、
「寂然として動かず、然も天下の故に通ず」
というのがある。
この意味は、
「静かな不動心をもって、しかも天下の事情がよく見えてくる」
ということである。
またわが国の昔の兵法の用語に、
「動かざること、山の如し」
というのがある。

 しかし、「絶対に不動」というのは、不可能なことである。山が動かないように見えるのは、仮相に対する人間の妄想念にほかならない。
 汽車にのっているとき、とても速い速度で走っているのだが、自分も同じ速度で走っていることを、多くの場合、自覚しない。
また、地球も動いている以上は、山が不動であるとはいえない。
 私たちが静座して不動の境地にあっても、じつは1秒間に数10マイルの高速で回転している地球とともに、私たちも高速で回転している。人間だけではない。地球上のあらゆる物質が地球とともに高速回転している。静止していると感じるのは、自分が地球の回転と同化しているからだ。

 古い諺に、
「静観是在動中」(=静観これ動中にあり)
という。この意味は、
動いている最中においても、静かに観よ、ということ。

安定打坐密法においては、「動中静」の境地に入る。
そして、この密法は「活動本来の心性を寂修する一工夫」である。
(付記―この意味は、「人は本来活動するものである。活動しながら、静かな心をうしなわない一つの工夫」ということ)

 「煩悩即解脱」という大真理がある。これは、しばしば煩悩(=人生の悩み)を感じつつも、同時にそこから解脱する、という意味である。この真理は、「動中静」ということが悟れないと、分からない。
(付記―言い換えると、解脱し悟ったとしても、煩悩は人が生きるかぎりは生じる、ということ。煩悩即菩提ともいう。この場合、菩提とは解脱と同じで、悟りという意味)






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