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山荘との別れ

山荘との別れ  2018. 1013

先日、信州の山荘にただ別れを告げるために行きました。

私ども夫婦は高齢のため、今年から山荘の生活をあきらめました。

妻の洋子が暗いところが見えにくくなったからです。

 

若い人に山荘を譲ろうと考えています。(無料で)

この山荘には30年間、毎年夏にかよい、1か月ほど逗留したものです。

この山荘で、退職後10年の間にちょうど10冊の本を書きました。

すべて天風メソッドに関するものです。(とくに瞑想)

思いで深い山荘です。

山荘の朝、夏は涼しく・・・毎朝私はコーヒーを自分で淹れ、それを飲みながら思いついたことをメモしたあと、コンピュータに打ち込み、あっという間に1冊ができたものです。

洋子は、私がいつ本を書いたのか、執筆している姿をみたことがない、などと暢気なことを言っています。

 

下の写真は、酷暑の夏がすぎて、やっと見た「秋空」を京都の自宅近くで撮ったもの。Nikon,coolpiks

 

筆で誦句を書く

墨書  2018. 924

 

最近、天風誦句を墨書しています。まえにふれましたが。

半紙にちょうど収まるように、行数を10行くらいになるように

誦句を短くしたり、省略することもあります。

 

書家・石川九楊は「現代の書は言葉を伝えるものにあらず、筆触の美を表現し、黒白のつくりだす妙味を創造するものだ」という意味のことを主張しています。そして現代の書道はほぼすべてこの方向をめざし、言葉の表現伝達を拒否しております。

私は書の達人としての九楊をたいへん尊敬していますが、この考え方を採用しません。

書はあくまで言葉を人に伝えるものだと考えております。

したがって、現代の日本語の文章を筆で描くのです。

読めもしない漢字の羅列や、昔の読みずらい仮名は一切つかいません。

時に大いに続け字、くずし字も使いますが、どこまでも現代の人が読めるような字を書きます。

天風誦句の手本がありませんから、自分で勝手に工夫しています。

我流と言われても甘んじてうけます。

天風先生の誦句を墨書したものがありますが、私はまねしたくないのです。私は日本の文人の書の流れをくむのが好きだからです。

会津八一や顔真卿を私はかって手本として勉強しましたが、あまりとらわれないようにしています。

下の写真は私が書いたものを厚美濃の和紙に裏打ちして、手すきの厚紙にはりつけた、いちおう作品めかしたものです。

自律の訓練

天風メソッド 15

 

自律訓練法について

 

自律訓練法というのは、“暗示の誦句をとなえること”を深層心理学でいう言葉です。

 

さて、「暗示の誦句」は英語ではaffirmationアファーメイションといいます。

天風先生はこのアファーメイションについて、ラマチャラカという人の著作で学び、それがネパールでのヨーガ体験と符合したのです。

その体験とは、ヨーガ村の山腹に粗末な石碑のようなものがたくさんあり、そこにヨギが刻んだ言葉があります。それをカリアッパ先生が英語になおしておしえてくれた。それらの言葉を暗示に使うと、心理学でいうアファーメイションと同じものになる、と天風は気がつきました。

 

ヨギ・ラマチャラカは

「ラジャ・ヨーガの教え」(1905年)という本を書いています。

天風先生は

「この本を読んで、自分がネパールの山奥で修行したヨーガの哲学的な説明を得ることができた」

とのちに語っておられます。この本のなかには天風誦句の原型となるものがたくさんあります。

ラマチャラカの誦句の一例を示しますと、つぎのようなものです。

 

(無題)

私の本体は意志をもっている。

意志は、わが霊魂と直結した権能である。

私は修練によって意志を煥発しよう。

心はつねに意志に従う。

私は心と体を自由に使いこなす。

私の意志は力強く、エネルギーに満ちている。

私は自分の力を感じる。

私は強い。

私は、意識、力、エネルギー、の中心であり、

これが私の本来の面目だ。

 

このようなラナチャラカの誦句は素朴であり、同じような語句の連立ですが、天風の誦句はもっと理由づけや展開があり、力強く肯定的で、はるかに優れています。

天風の誦句は信念を煥発してくれます。

毎日天風の誦句をとなえていると、現代的な得体のしれぬ不安などがしだいに消えていきます。

天風の誦句によって私は救われた、と思います。

夏の京都より

夏の京都より 2018824

 

今年の京都の夏はとても暑かったです。

一日の最高温度が38度以上の日が13日連続しました。

ほとんど人にも会わず、日中は昼寝をして、

毎日夕方寺町を散歩して運動不足にならないようにしていました。

もとんど無為の日々といえそうですが・・・

実はたいへんな収穫がありました。

それは家にいて“裏打ち”の技法を修得したことです。

“裏打ち”というは、表装の作業の主要な部分で、

墨書を作品化するために、作品の裏側に厚い和紙を糊づけすることです。

これはプロにしかできない作業だと思っていましたが、

調べてやってみると、意外に簡単でした。

ただ裏打ちした作品を正確に色紙に貼り付けることは、

今の私には不可能としか思えません。

 

“裏打ち”だけでも修得できたのは、私の今夏の最大の喜びでした。

 

天風誦句を毎日のように墨書しています。

写経のようなものですが、

最近は少し作品的なものになるよう工夫しています。

 

さて、前に私の短歌をいずれ披露しましょう、

とこのブログに書きました。

ここに、2つばかり私の短歌を書いておきます。

 

詞書=私を産んだ母は私が幼い時亡くなり、

私には記憶がありませんが、

母は京都の生まれです。

それで京都の北山などを見るとき、

母もこの変わらぬ山の稜線を見たのだな、

という思いがあります。

 

いにしえの 母もみたりし 故郷の

変わらぬ緑 山の稜線

 

詞書=春のまだ水田の稲が伸びない頃、5月だったか、

明日香へドライブしました。

万葉集を読んだりして急に大和三山をみたくなったのです。

 

わが魂の ふるさと麗し 指さして

人の教え給いし 大和三山

心の鍛錬について

天風メソッド 14

 

心の鍛錬について 2018. 810

 

「心の鍛錬」という天風誦句があります。

なにしろ天風先生は、まだ帯刀の気風ののこっている明治時代の初期(明治8年)に生まれ、

しかも日清日露の両戦役では、日本刀をもって敵と命のやりとりをした人であり、

その後も抜刀術をつづけられ、

90歳ころまで観衆の前で抜刀の妙技を披露されるほどの人でしたから、

天風先生にとっては、日本刀はきわめて身近な存在でした。 


私がかって天風会の機関誌の編集責任者だったころ、

機会に恵まれて、天風先生が所持しておられた日本刀を20口(ふり)ほど見せてもらい、抜刀して刀身を触ってみたことがあります。

 

天風誦句「心の鍛錬」は、集中力を刀剣のイメージで比喩して

書かれているので、現代のわれわれにはあまりピンとこない。

それに現代にはそぐわない時代錯誤的なものもあります。

 

そこで、<刀剣>のイメージを捨てて

<集中力>という言葉をつかって、私は書き直しました。

原文の好きな人はそれでいいでしょう。

私自身は、原文のまま暗唱して毎日となえております。

 私のこの誦句の書き直しで、その原文の意味するところは十分に表現できていると自負しています。

心の鍛錬 (誦句集(二)より)

 

神は私たち人間に

すぐれた集中力を与えている。

だから、眼前の一事に集中する習慣を身につけると、

おどろくべき集中力が養成される。

 

覚者とか哲人とよばれる人は、

ただこの消息にめざめて精進した人であり、

凡人というは、自分の雑念にふりまわされて、

なにをしても成功せず、苦しみ悩む者をいう。

 

だから、かりにも修道の人は、

ただ何事にも一念集中して心を研き

すぐれた集中力を発揮すべし。